横浜曙町 親不孝通りの赤線跡

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起死回生の救世主とも言うべき遺構に出会えたことで足取りも軽くなり、意気軒昂としながら親不孝通りを歩いて行けばそこには現役の色街がこんにちは。

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特徴のあるカフェー建築もちらほら残る。風俗店は、昔からの建物をそのまま利用しているところもあれば文字通りの新装開店もあり、それらがオセロ盤のようにランダムに並ぶ光景が見られる。

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個性を放つ水色の回転窓。なんでこんなところにごみが・・ええい邪魔だw

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“現役”のほうには呼び込みの兄ちゃんがもれなく店先にスタンバってるので、こちらとしてはやりづらいったらありゃしない。
「コイツ一体何撮ってるんだ?」という視線を一心に集めながら‘まちさんぽ’は続いていく。

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またしてもそれは唐突に現れたのである。ここへ来た目的でもあったそれは、妖しいまでの存在感を通りに投げかけながらただそこにじっと建っていた。

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かつて春をひさぐ場であったそこは、ルリ子さんというママさんが切り盛りするスナックとして営まれていたが、先の震災の影響で閉店してしまったそうである。
まことに残念でならない。

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嫌らしいほどの存在感の正体は、やはりこのタイル貼りの円柱が見せる曲線のせいではなかろうか。

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全国にあまたある赤線建築の中でも、やはり青や緑と言った原色系のタイル貼りが最も美しいと思う。
以前鶴見の青線の話でも触れたとおりだが、ピンクと黄緑の取り合わせに奇妙な因縁めいたものを感じる。

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ファサードの最も目立たないところ、視線を地面すれすれまで下げるとギリシャ神話を彷彿とさせる造形物が目に止まる。何という芸の細かさであろうか。

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固く閉ざされた雨戸の向こうにいかなる空間が存在するのか。訪れ人はその決して見ることのできない部屋の情景をただ想像することしかできない。

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現役のお店として再利用された元赤線建築。
役目を終え、愛でるべき対象ともなった建物に品のない看板が取り付けられ、まるで風情のかけらも感じられない。極めて遺憾である。

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窓のあたりに普通とは違うなにものかを感じる。ただそれ以上に気になるのが店先に無造作に置かれたイスのほう。まさかね。

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最後に。1927年(昭和2年)創業の釜飯屋さん。その名も「お可免(おかめ)」。
気づけば長者町まで来ていたようだ。これにて曙町散策は終了。

当時の赤線は国道16号線の南側一帯まで至っていたようで、曙町三丁目の国道沿いに回転窓の遺構があるということを最近知った。
いつか近くに行く機会があれば寄ってみるか。

[訪問日:2014年5月25日]

コメント

  1. マキ より:

    こんばんは、曙町かぁ、わたしは黄金町で夜勤のバイトをしていたのですが、遊んだことはまったくありませんでした。怖いし。
    曙町には80年代前半に面白いマスターのバーができて、学生風情で時々、バーボンを飲みに行っていました。学生には少し高い値段でしたが、マスターを慕うお客が多くて、結構繁盛していました。当時団塊さんがまだ30歳台ちょぼちょぼでしょう。16号沿い。あのあたりでは、そこ以外で飲んだことはないです。でも伊勢佐木町からそのお店への生き帰りは結構、酔っていても緊張して歩いていました。やっているか、いないかわからないお店ばかり。暗い。
    で、横浜を離れて久しぶりに行くと、ご指摘の通り93年くらいでしょうかね。お店までの小道が「●●女学園」みたいなネオンでギラギラに変わっていて驚きました。マスターに聞くと「いいんですよ、賑やかになって。働いている女の子もお茶を飲みにきてくれるし」との答え。また、その数年後に行くと「客の男どもがストーカーになって女の子の仕事帰りを待っているので、風俗店が女の子を乗り合いにしてクルマでアパートまで直接、帰すようになったので、来なくなったんです」と少し、しょんぼり。オトコはしょーがねーなーと思いました。
    そのお店は10年前くらいかな、なくなっていました。調べると30年近くはやったみたいですね。もっと行っておけばよかった。「や」の人がミカジメ料を要求してくるのを、きっちり断っていたそうです。あのあたりでそのお店だけが繁盛している感じでしたかららね。しっかりした人でした。ただ、モテるので、よく離婚していました(笑
    曙町ってもともとはそういうところなんですね。曙町や黄金町の真髄は語れずに申し訳ありません。

    • マキ より:

      訂正・生き→行き  感じでしたかららね→感じでしたからね 
      ということでお願いします 

    • machii.narufumi より:

      いえいえ、当時の貴重な思い出話、非常に興味深く拝見させていただきました!
      私は今しか知りませんが、曙町も昔は今とはずいぶん雰囲気が違ってたんですね。ネオン街になって風情が失われてしまったのは確かだと思います。
      色々な出来事の積み重なりと色々な人たちの関わり合いがあって、そこには無数のエピソードがあって。つくづくまちの歴史って面白いなぁと感じています。
      自分が知らない時代の話を聞くのが好きなので、またちょくちょく遊びに来てもらえたら嬉しいです。

  2. L2 より:

    親不孝通り良い響きですね。若い頃に遊んだザキ裏通り、横浜橋の中にあった邦画館
    三本立てで高倉健・藤純子の映画を確か150円オールナイトで見たものです。
    横浜橋入口に一番と云うラーメン屋16号線を曙町に行くとトルコ風呂が何件もあり末吉町寿町浜っ子通り福富町遊ぶ事欠かない街でした。(真金町はグレーの街でした。)
    福富町のキャバレーはボーイさんを呼ぶのにマッチを擦って高く掲げたもの
    当時は100円ライターも無くお金のある人はダンヒル・デュポンを持っていたのを思い出せます。年齢を取りました・・・昭和の風情をこの特集で懐かしく思い耽っています。

    • machii.narufumi より:

      今や、数少ない建物でしか当時を感じることのできない時代。思い馳せるにしてもあまりに変わりすぎてしまいそれも困難になってしまっています。
      生きたこともない時代に憧れを抱く理由が自分でもよくわかりませんが、昭和30~40年代というのは私にとってそういう時代です。
      実体験に基づく描写は、私にとっては宝物のようです。
      特に横浜の、あの界隈であるからこそよりそう感じるのかもしれませんね。

  3. 横浜メリー より:

    私は昭和40年の生まれでミュージシャンの両親のもと、赤線地帯の名残ある横浜の野毛、日の出町、黄金町界隈で育ちました。父はピアニストで、場末のキャバレーやダンスホールなどの演奏の仕事もしていました。中区の公立校に通っていたのですが、大岡川沿いに住む友達も多く、自宅が素泊まり旅館だったりラブホ経営、暴力団、中華系や在日とか様々で、今でいうダイバーシティが既に実生活に浸透していました。京急ガード下で小料理屋のような店をやっているお友達のお家で遊んでいたとき、5時ぐらいになったら軒下の電球がピンク色に代わって、男性が店先に並べた椅子に女の人が数人出てきて座っていたのを何度か見ました。電球がピンクって可愛いなと思ったのをすごく覚えています。仰る通りタイル使いは随所に見られました、通っていた町医者の診療所もなぜか中も外もタイル張り。お手洗いも玄関先も洗い出しタイル張り。そんな環境でしたが横浜の夜の世界で生きる人たちは人情厚く、違いとか寂しさや痛みもお互いに受け容れていて、ぼろは着ても心は錦の心持で必死に生きていた時代だったなって思います。昭和のあの時代の情景には白熱電球がぼんやり照らし出すすりガラスや、薄暗い裏通りとか闇が随所にあったけど孤独感ってなくて、逆に今はどこも煌々と明るいですが人との繋がりが希薄で横浜に帰る度に、当時の名残を見て安堵したりします。これからもブログ楽しみにしています。ありがとうございました。

    • machii.narufumi より:

      こんばんは。素敵な身の上話をありがとうございます。当時の情景が胸に浮かんでじーんと来ました。
      私は生きたことはないものの、戦後~昭和40年代頃の空気感や人情みたいなものがすごく好きでそれがこんな趣味につながっています。
      仰るとおり、皆が助け合い必死に生きていた時代。まさに書いて頂いた描写そのものです。
      そして、現代は人とのつながりが希薄化していることも実感としてかなり強く持っています。昭和という時代が残したものは思っていた以上に大きなもので、今の世には欠かせない何かなのかな、と思ったりします。
      こちらこそありがとうございました。

  4. ハマっ子 より:

    なぜか、ホッとする伊勢佐木町。小さい頃から、買い物、不二家のレストラン、野毛山動物園、怪しいけど今も大好きな地域です。

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