京街道沿いの色街。京都 橋本遊郭跡を歩く

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街の西側を淀川が流れる橋本には、平安時代まで山崎橋という橋が架けられておりこれが地名の直接の由来となっている。
たびたび流された橋が架けられなくなったのちは、1962年まで渡し船が運行していた。現在では橋本から山崎へ渡る手段は途絶えてしまっている。

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さて、残すところは遊郭の北側、中ノ町である。
とは言え、けっこう行ったり来たりしたこともあり、どっちがどっちだったか分からなくなっている部分も多いのでその辺りには多少大目に見て頂ければ幸いである。

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一頁でラスボス級と評した妓楼の窓のようである。
こんな具合に、同じ路地を歩きまわって同じ建物の写真を数回撮ることがよくある。

適当な性格が現れているようで我ながら気恥ずかしい限りである。

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多津美旅館

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中ノ町で有名なのがこちらの「多津美旅館」さん。
見たまんまの転業旅館で、ネットを徘徊するとこちらに宿泊された方のレポートが随所に散見できる。
中に分け入ると、かつてダンスホールだったそこにはダンスに興じる男女のステンドグラスが。
いつか泊まってみたいと願うものの、ここに泊まるほどの用事が見当たらないのが悩ましい。

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淀川温泉と書かれているが実はこの温泉、湯の味のごとくしょっぱい歴史に彩られている。
売防法施行後の転業策として、ここ橋本は温泉旅館街として生まれ変わろうとした。
50ヶ所余りの井戸水を採取して成分を分析。適合する鉱泉が見つかり、配水管まで敷設されたものの思った以上に客足が伸びず、昭和52年(1977年)に源泉を所有する家屋の改築に伴い廃止してしまった。

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元ダンスホールだった場所は現在では食堂になっているようで、窓にはこのステンドグラス。
あくまで推測の域を出ないものの、これほどまで往時の面影が残るのは、温泉旅館街として延命しようと結束した帰結ではなかろうか。どうにもそんな気がしてならない。

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軒先に鍾馗さんがちょこんと乗っかった元妓楼も京都ならでは。

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なかなかの大店だったと思われる。かなり間口が広い。
この先が橋本遊郭の北端となり、左へ折れると階段がある。それを上ると旧京阪国道へ出る。

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旧京阪国道は淀川の堤防のような役割を果たしている。一段高いところから廓内を望む。右端に見えるのが多津美旅館さん。

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反対側(京都側)に目をやると、妓楼のなれの果てのような建物が川べりに一軒。
さっきまで歩いてきた京街道は、言わば旧々京阪国道ということになろうか。

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旧京阪国道へのT字路を右折すると橋本駅へ戻る道程になる。若干意味不明だがいよいよ散策もクライマックスを迎える。
空き地の横には朽ち行く遺構が一軒。側面を見るとちょっと痛々しい。

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目の前には転業した酒屋さん。外観はだいぶ手直ししている様子だが、注意深く観察するとまだ名残が残っている。

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特に玄関まわりが顕著。

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最後に少しだけ駅の周辺をぶらぶら歩いてみた。
ここにもかつて建っていたのだろう。哀しくもタイルの一部が残されていた。
まるで自分がここに存在した証を声高に叫んでいるように見えた。あるいは建物の意志がそうさせたのかもしれない。

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そう言えばやをりきの南側の路地をまだ歩いていなかった。
ここにも素晴らしい建物が残されている。

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『赤線跡を歩く』にも載っている、額面通り“駅徒歩0分”の元妓楼。この先が線路で踏切がある。
軒灯の裸電球が、月並みな表現を用いるなら実に憂いを帯びていて郷愁を誘う。

すべての路地を歩いても10分とかからないほどの狭い区域に、これほどまでの濃密な町並みをとどめる京都・橋本遊郭跡。
正直なところ、ここまで素晴らしい景観は全国探してもめったにお目にかかれるものではないと思う。

遊里の名残も、徐々にではあるが薄まりつつあることは確かである。是非ともお早めに足を運んでみてはいかがだろうか。

[訪問日:2014年7月19日]


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