豊橋市『東田園』跡を訪ねて

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もう一年近く前になるが、愛知県の遊里巡りのために青春18切符を使用した一泊二日の超弾丸ツアーを敢行した。
とまぁ、冒頭から痛い人丸出しなわけであるが、構わず筆を進めて行く。最初に訪れたのが東部一の都市、豊橋であった。

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筆者はこの街には浅からぬ縁がある。と言うのも、実は出生の地がこの豊橋なのだ。
なんて与太話はさておくとして。
(毎度のことだが)何せ分刻みのスケジュールを組んでしまったためもたもたしてるヒマはない。
すぐさま市電に乗り換え、目的地へと向かった。

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移転した吾妻遊廓

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かつて豊橋には吾妻遊廓という遊里があり、全国遊廓案内によると

豊橋市吾妻遊廓は愛知県豊橋市東田町に在つて、東海道線豊橋駅で下車すれば東へ約二十丁、駅から乗合自動車で「東田」で下車すると直ぐである賃十銭。(中略)
豊橋は昔から遊女町として名高い処丈けに今も仲々盛んである。宿場から遊廓に成つたのは明治四十三年十月一日であるが、現在は貸座敷が五十六軒あつて娼妓は四百九十五人居る。

とのことで、かなりの規模である。以下に現在の場所を示す。

ピンを置いた場所を中心に、きれいに「田」の字になっているのが遊郭跡。ここだけ見れば見事なほど江戸の吉原と酷似している。
ということは、斜めになっているのも北枕を避けるためかもしれない。

明治43年(1910年)に誕生した吾妻遊郭は、戦局厳しい昭和19年(1944年)、軍の宿舎として徴用されその歴史に幕を閉じる。

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当時の様子。『遊郭をみる』より。

戦後はバラック住宅街となるも今度は私娼の存在が問題となり、遊郭の復興を望む声もあって昭和27年(1952年)に『東田園』としてすぐ近くに移転開業することになる。

この『東田園』は、売防法施行によりわずか6年後に終焉となる。新しいシマなので、一部が旅館となり現在も営業している。
残った建物も、住宅として使用されており全体的に往時の町並みをかなり色濃く残している。
今回は、その東田園跡を歩いて来た。

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市電の「競輪場前」を下車し、目の前の道を南下。程なくして左へゆるいカーブを描き、すぐに目的地へ到着する。

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最初に現れるのがこちらの「旅館松月」さん。
控えめな外観は、まだほんの挨拶代わりに過ぎないからか。

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玄関横の明かり取りの窓は、名前にちなんでか松の形を象っていた。
こういうちょっとしたアイデアがいいですよね。

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東田園は、北側の公園を中心にU字型(コの字型)になっている。
いや、先の松月さんの位置を考えるとカタカナの「ロ」の字のような気もするけど、まずは東側から見て行こう。

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見ての通りかなりの幅員。クルマ3台並べてもちょっと余りそう。典型的な遊里の特徴と言える。

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一軒目。おぉコレは凄い。
塀は“和”なのに玄関周りは“洋”。カフェー調は戦後だから、この手の和洋折衷系は戦後以降、売防法施行以前ということになろうか。

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こうして見るとかなり珍しい。和洋折衷、全国探してもそうそうお目にかかれるもんじゃないよね。
記憶の限りでは、キレイに現存するのは丹波篠山の京口新地くらいしか思い出せない。

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現役時代は「此の花」という屋号だったよう。

(2ページ目へ続く)

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