呑スケの里!多治見・西ヶ原遊郭跡と周辺の渋い町並み

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窯業で栄えた、東濃地方随一の都市多治見。商業の中心であった場所が現在「オリベストリート」という“外向きの街並み”となっているのは前回綴ったとおりである。

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では次に「娯楽の中心」だった場所を見てみることにする。もったいぶってもしゃーないっすね。皆さんお待ちかねの遊郭跡であります。

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まぁ時系列的にはこっちが先だったりするんですが、兎にも角にも駅から南東へ10分ほど歩いて広小路界隈へやってきた。ここに「西ヶ原遊郭」ができたのは明治22年のことだという。

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客筋はもっぱら陶磁器職人たちの遊里で、この地場産業の盛衰が町の盛衰、ひいては遊郭の盛衰に直結していたと『全国遊廓案内(昭和5年)』には記載されている。

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あまり情報が少ない里であるにも関わらず、この地を訪れる人が思いの外多いことをネット上の情報量が物語っている。
おそらく、戦災に遭わず当時の建物が残っているからというのがその訳であろう。

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西ヶ原遊郭があったのは現「御幸町二丁目」から「広小路2丁目」、新羅神社の北側にあたる一角である。
地割がこれと言った特徴を示しているわけではないが、現地に足を運べば「あぁここだよね」という雰囲気は確かに感じられる。

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くたびれたまちなみ

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現役当時は町の活気にも後押しされ、岐阜の金津遊郭に匹敵するほど勢いがあったらしいが、今来るとなぜ栄枯盛衰とはかくも残酷なのかという現実を直視することになる。

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真っ先に目につく「玉突」と書かれた建物が身震いするほど素晴らしい。玉じゃなくて違うものを突いてたんじゃないのと、ついゲスいツッコミを入れたくなる。

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実のところ、昭和33(1958)年の売防法施行後は飲食店や銭湯などにそれぞれ転業したという。ちなみに銭湯のほうは今でも建物が残っている。これについてはのちほど。

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こちらは妓楼に料理を供していたのであろうか、玄関周りに目を凝らすとその形跡を認めることができた。

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ちなみに先の『全国遊廓案内』によれば、その当時妓楼11軒、娼妓87人だったそうである。居稼ぎ制だったとあるので、それぞれ8~9人ずつ娼妓を抱えていたことになろうか。規模的には「中」ぐらいと言えよう。

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なんとなく「クロ」っぽいけどイマイチ決め手に欠ける長屋。結論から言えば、総じてこんな感じの建物ばかりだった。

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この写真館も、転業なのか否か判然としない。場所柄、需要はあったはずなのでどっちも考えられる話ではある。

(2ページ目へ続く)

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コメント

  1. maru より:

    そうそう、昭和から時間が止まったままの街角
    それを、探し歩いているのです。
    先日も突然、そんな街角があったので
    載せておきます。

    料亭の鑑札もありました。

    • mast-mo より:

      常陸太田じゃなくて常陸大宮ですか・・
      また渋いとこ行きましたねぇ。たぶん、通過したこともないです(笑)
      しかしいい感じの町並みですなぁ。機会があれば足を運んでみます!