町並み保存の聖地 木曽路・妻籠宿へ行こう

この記事は約3分で読めます。

日本初の伝建地区、木曽路・妻籠宿。後半もまだまだ見どころが続きます。

前編に島崎藤村の名が二度も出てきたのは偶然ではなく、実は布石だったりする。というのも、藤村はお隣「馬籠宿」の生まれ。

坂と石畳の宿場町 木曽路『馬籠宿』は絵になるまち
中山道43番目、そして木曽路11宿の最南端に位置するのが「馬籠宿」。 難所・馬籠峠を挟んで隣り合う妻籠宿と並んで、中山道の人気スポットのひとつである。 地理的に近いのと名前が似てるせいで両者を混同して...
スポンサーリンク

本陣

平成7年に復原されたこの妻籠宿本陣。実はここが藤村の母の生家。そして兄がこの家(つまり伯父のところ)に養子に入り、最後の当主となった。

つまるところ、ここは復原された島崎邸なのである。

藤村が晩年を過ごした「町屋園」は神奈川にあり、筆者は高校時代にそこのすぐそばを通って通学していたので島崎藤村と聞くとちょっと懐かしい気持ちになる。(でも入ったことはないw)

話が逸れました。先へ進みましょう。

スポンサーリンク

枡形を通り寺下の町並みへ

江戸時代の宿場には必ずと言っていいほど整備された「枡形(ますがた)」。
街道を二度直角に曲げ、外敵の侵入を困難にさせる役目を担った。

その枡形の跡が、往時の雰囲気を色濃く残している。これが曲がってすぐのところ。

ここが二個目のクランクを曲がったあたり。ここも撮影ポイントとしてはかなりいい。

枡形の先が寺下地区。日本で初めて宿場保存事業が行われたのがこの寺下で、要するにここが今の妻籠宿の原点となった場所である。

個人的にはここが妻籠の中で最も美しい町並みだと感じた。月並みな言い方をすれば「江戸時代にタイムスリップした」感じ。

昭和44年の解体復元で、江戸中期の庶民の木賃宿だったことが判明した上嵯峨屋。

見ての通り、土間が建物の中央にあるというかなり珍しい造りになっている。左右の部屋を挟んで土間がある感じと言えばわかりやすいか。

その少し先で妻籠宿は終わりを告げる。橋のたもとの案内板にはこう書かれていた。

「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」

徹底した復元っぷりに脱帽。。

帰りは旧中山道の東側に並行する道を戻ってみた。そこにあったのは旧妻籠小の木造校舎。
開校なんと明治6年。平成9年に廃校になったその建物からは、まだ木の温もりが感じられた。

でも・・風化がすごすぎてにのきん像が完全に廃人と化していた。
祟られそうなのでここでは写真は自重させていただきます。
各自現地でお確かめくださいw

スポンサーリンク

最後に

町並み保存の聖地、木曽路・妻籠宿。その町並みは、中山道の宿場で最も保存状態がいいと言われる。

それは取りも直さず、住民の保存に対する意識の高さと、自分たちが住む町への愛着の賜物ではないかと思う。
いつかもう一度行きたいと思える、本当に美しい町並みだった。

[訪問日:2016年6月1日]


コメント

タイトルとURLをコピーしました