四国への玄関口の役目を担う玉野市。
フェリーターミナル(宇野港)としてのイメージが強いが、実は造船業も盛ん。
その中心とも言える玉地区は、かつては宇野駅から市電も乗り入れ企業城下町として発展してきた。
市電の玉駅跡から始まる「玉商店街」は、レトロ界隈ではちょっとした有名物件となっている。
玉商店街を歩く
従来のアーケードの概念を見事に覆す、オープンエアの商店街。
さすがは「晴れの国おかやま」である。晴れ以外想定していない思い切りの良さはまさに目からウロコの衝撃だった。
しかしながら、万が一雨が降った場合、店先に雨が侵入しないように、また、傘をたたんで入店する客への配慮が行き届いたこの屋根はどうであろう。
まったくもって無駄のない設計ではないか。
そして、味わい深い建物が畳みかけるように立ち並ぶ光景。
なかなかハイレベルなアーケードだ。
旧玉駅の南側。こちらも同じようにアーケードが続いていた。
楽しげな建物がそこかしこにあって、脇道も見逃せない。
玉野市電が走っていたのは昭和28年~47年の間で、その当時からこの商店街は造船業の関係者で賑わっていたそうだ。
昭和30年代としても、60年は経っていることになるだろう。
子供の頃、母親に手を引かれてここで買い物をした人ももうそれなりの年齢になる。
この商店街にはちょうどタイムリーな話題があって、つい最近、すぐそばにある三井E&S(三井造船)が玉野事業所での船舶の建造から撤退する方針を発表し、地元で波紋が広がっているというニュースを目にした。
地元の方の「造船のまちで生まれ育ったのがわれわれの誇り」というコメントにはずいぶん考えさせられるものがあった。
自分のまちに確かな誇りを持つこと。これはなかなか簡単なことではないと思う。
雇用も含め、地域のアイデンティティそのものなのだろう。
老婆心ながら、この商店街も含めどうなっちゃうんだろう・・って思いが拭えない。
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コメント
私の世代だと子供の頃に日本の造船業の強さを社会科で習っていたので,海無し県出身の私にとって西日本に定着してから触れた各地の工場と,それに係わる町並みを眺めることは感慨深いものでした。もっと早くから衰退してしまった小さな町も少なくないですが,玉野に通りかかるたびに工場を出入りする工員の方々の姿が少なくないことに身に覚えのない郷愁を覚えてきました。自衛艦との関わりは今後も続くようですが,時代の流れを感じます。
そのあたりはさすがの“世代間格差”ですね。かく言う私も巨大な工場でまちが成り立つ
いわゆる「企業城下町」とは縁遠い人生だったので、そのようなまちに赴くと強く感じ入るものがあります。
西日本の沿岸部は造船のまちが少なくないのでなかなか興味深いです。