前夜から降り出した雨が止む気配はまだしばらくなさそうだ。
鈍色の空は底なしに重く、耳に入ってくるのは規則的なリズムでフロントガラスを叩く雨音だけだった。
鬱々とした心持ちでたどり着いたのは、高知県南部の四万十市。一般的には「土佐中村」と呼ばれるまちだ。
高知の下のほうはほとんど縁がなく、その昔、青春18きっぷで四国を一周したことがあるぐらいだが、そのとき乗った予土線はもう少し内陸を通る。
よって、このあたりに来たのは初めてだった。
窪川から三セクの土佐くろしお鉄道に乗って1時間。電車で行けるのでアクセスは良いほうだろう。
傘をさしながらとぼとぼと歩き出す。
首から提げたカメラ、特にレンズに付く水滴に注意を払わなければいけない雨中の散策は本当に憂鬱だ。
さて、この四万十市(旧中村市)には昔赤線があったそうだ。
この日はそれを見に来た。
と言っても、さすがにこんなところまでやって来る酔狂な先人はいなかったようで、調べても一向に情報が出てこない。(こういうことは滅多にない)
ならば現地で図書館にでも…となるところだが、残念ながら年末年始は休館である。
困った時の神頼みではないが、結局先日の坂出、高松でお世話になった路地裏の師匠にある程度の場所を教えてもらった。ただし確証はないとのことだった。
土佐中村はこんなところ
中村市(現四万十市)は、「土佐の小京都」と呼ばれるまちである。
室町時代に京都を模して造られたまちで、碁盤目状の街並み、祇園・京町・東山・鴨川などの地名やゆかりの神社が残っていること、さらには大文字の送り火など文化的な名残も見られるなどそんじょそこらの小京都とは一線を画している。
残念ながら昭和21年の南海大地震によってそれ以前の建物はほとんど失くなってしまったそうだが、代わりに戦後から高度経済成長期あたりのものと思われるこんな感じの建物がよく残っている。
この日歩いたのは市役所の西北にあたる一帯。行程の都合上1時間ぐらいしか取れず食事さえできなかったのが今となっては心残りである。
中村にあった赤線
おなじみ、昭和30年の『全国女性街ガイド』には土佐中村はこう紹介されている。
足摺岬までバスで三時間半の古い宿場の元遊廓で十八軒、近郊生れの女が四十一名。今でも祇園、鴨川、東山の地名が残っているほど京都文化を憧れた渭南地方の古い街。最近市に昇格した。
ご覧の通り、場所などの手がかりは皆無であるが昔は宿場町で遊郭があったようだ。
ってことは、遊郭があった ⇒ 南海大地震で壊滅 ⇒ 赤線として復活
ってところだろうか。
知らんけど。
まぁ、何も予習できてないのでひたすら歩くしかないんだけど、結構残ってるんですよ。こんな風にスタイリッシュな建物がね。
ホント、雨さえ降ってなければ滞在時間を30分ぐらい延ばしてもよかったと思えるぐらいいいまちだった。
商店街を越え、もう少し北側まで足をのばしてみた。
ここ、泊まってみたいな。
そしていよいよ本命の場所へと足を踏み入れた。
市役所の北西に形成された盛り場。おそらく赤線があったのはこのあたりではないかと、そう睨んでいる。
角を折れると、ますますそんな空気が濃厚になってきた。
この艶っぽさはどうであろう。
まち歩きをやっていて一番嬉しい瞬間は、何も知らずにやって来た街で心に刺さる建物に出会ったとき。
つまり、こういうときである。
何という毒々しい配色であろう。言いたいことも言えないこんな世の中じゃこんな色だってありなのだろう。
素晴らしい…。まさに探し求めていた理想のような景色。
建物の間に伸びる路地も異常なまでの風情だ。
“皿鉢料理”の文字が、今自分が高知に来ていることを思い出させてくれた。
くぅ…こんな店で魚料理に舌鼓を打ちながら地酒の魔力に溺れたい。
高知はとにかく魚が旨いのだ。
夜には溢れんばかりの酔客が闊歩する・・ようには見えないが、これだけの店があるのだ。まだまだ盛り場としては機能しているのだろう。
土佐の小京都、中村。
このまちに投宿し、この路地で酒を呑む。
いつになるか分からないが、今度こちらに来る機会があれば是非ともそれを実行に移そう。
今度は電車で来るのも悪くない。
そんなことを思いながら、次なる街へと向け雨の中を走り出した。
[訪問日:2019年12月30日]
コメント
情報少ないですよね。夜になると意外と現役店が多かったです。そこそこ人通りもあって。
いや、もうリサーチ段階で途方に暮れてましたからねw
その節はありがとうございました。