長野県の古い町並みで最も有名なのは何と言っても「妻籠宿」と「奈良井宿」、これがいわゆるツートップになろうかと思う。
ではそこにもうひとつ加えて“ビッグスリー”にしたらどうだろう。
これは人によって若干分かれるかもしれないが、筆者は迷いなく「海野宿」を推したい。
これはもう、妻籠や奈良井に匹敵する町並みと言っても言い過ぎにはならないだろうと個人的には思っている。
今日はそんな「海野宿」の話である。
海野宿があるのは長野県東御市(とうみし)。
東部町と北御牧村が合併してできた市なので東御市。
どこそれ?と言う人はきっとたくさんいることだろう。
上田市のお隣、軽井沢からもそこそこ近い、と言えば何となく伝わるだろうか。
つまるところ県の東部、いわゆる「東信」と呼ばれるエリアである。
海野宿の歴史とか
江戸前期の1625(寛永2)年に北国街道の宿場として整備された海野宿。
当時は田中宿と上田宿の「間の宿」であった。
ところが、1742(寛保2)年に発生した千曲川の大洪水で田中宿は壊滅。
その結果、本陣が移動し、海野宿が正式な宿場に昇格することになった。
宿場は約650mとそこまで長くはないが、本陣1軒、脇本陣2軒が設けられた海野宿。
何より、北国街道は佐渡金山で採れた金を江戸に運ぶ重要な輸送路であり、加えて善光寺詣でや参勤交代の大名行列等で非常に通行量の多い街道であった。
しかしながら明治に入ると鉄道が開通し、宿場としての利用者も激減。
養蚕に活路を見出し、「養蚕のまち」へとモデルチェンジを図ったのである。
そんなわけで、海野宿の建物は宿場時代に建てられた旅籠仕様のものと明治~大正に建てられた養蚕仕様のものとが混在している。
宿場時代のものも、適宜養蚕に適した造りに改装されたそうだ。
蚕の飼育には室温が重要で、火を室内で焚く必要があるため煙出しの窓が必要だった。
これを担ったのが天井に乗ってる越屋根で、すなわち「気抜き」と呼ばれる換気用の装置である。
ここを歩く際は、是非屋根に刮目して頂きたいと思う。
海野宿は1986(昭和61)年に「日本の道100選」、そして翌1987(昭和62)年には重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選ばれているが、先述の理由から種別が「宿場・養蚕町」なのである。
ただの宿場町ではないところが最大の特徴と言ってよいだろう。
なお、お隣の上田市にも「海野町」なる地区があるが、真田氏が上田城を築いて城下町を整備した折にここから商人を移住させたのが起源となっている。
その後、上田の海野町と区別するために海野宿のほうは「本海野」と呼ばれるようになって今に至っている。現住所もそのまま東御市本海野である。
通りの中央付近にあるこの水路は「表の川」と呼ばれるもので、位置も江戸時代から変わっていないと言う。
宿場時代は馬に水を飲ませたり、旅行者が足を洗ったと言われているそうだ。その風景が今でも目に浮かぶようである。
中央に水路が流れ、柳が揺れる海野宿は本当に江戸時代と錯覚しそうなほどの風情を湛えている。
それこそタイトルにも書いた通り、その辺を飛脚が走っててもまったく違和感のないレベルだと思う。
そんな海野宿には立派な卯建がいくつか見られるが、いわゆる装飾性重視の「袖うだつ」は明治以降のもの。地味なのが本来の防火壁で、こっちは江戸時代に造られたものとなっている。
また、こちらの二階に見られるような長短2本ずつを交互に組み合わせた格子がよく見られる。
これは「海野格子」と呼ばれる、この地域特有のデザインとなっている。
そしてもうひとつ。
江戸時代、旅籠だった建物はこのように桁が外側にせり出した出桁造りになっている。
この二階が張り出した構造は言わずもがな、雨天時に旅人が雨に濡れないための配慮である。
ここまでをおさらいすると、養蚕造りの「気抜き」、そして「海野格子」「卯建」「出桁造り」が海野宿の建物の特徴となっている。
さらに用水路と、見どころには本当に事欠かない。
食事やお土産もいいけど、意識的に建物に注目して頂ければ、きっと思い出に残る旅になるだろうと思う。
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