ここへ来たのはずいぶん久しぶりだ。
凍てつく朝、2015年最後のまち歩きのために降り立ったのは、他ならぬ岐阜の地であった。
すぐさま名鉄に乗り込み、4駅先の「手力」で下車した。
目的は他でもない。あの『金津園(旧金津遊郭)』と、言わば“生き別れの兄弟”のような関係にある元色街をこの目で見てみたかったのである。
手力園
あまり知られていないが、岐阜駅南口徒歩3分の『金津園』は、元々は北口の柳ヶ瀬界隈にあった。
戦時中、貸座敷を川崎航空機の寄宿舎として接収され、金津遊郭はそのときに一度引っ越しをしている。その引っ越し先が、岐阜市郊外に位置するこの「手力」だったのだ。
駅を出てほぼ真っすぐ南下していく。500mほどで元金津遊郭があった界隈に到着する。
この場所、世間的には「手力園」と呼ばれている。
地図を見ると一目瞭然。北枕を避けるように若干斜めっている、整然とした区割り。
例え建物がなくなり、当時を知る人がいなくなったとしても地割だけは歴史を語り続ける。
このY字路のいずれを進んでも結界の内部に入ることができる。
碁盤の目状をした路地というのは実は少し歩きにくい。ジグザグに歩いても、直交する路地は残ってしまうからである。とにかくしらみつぶしにすべての路地を歩く他方法はない。
もう少し歴史の話を続けよう。
一面田んぼだったこの地に業者が移転してきたのは昭和19(1944)年の秋。
戦時中は「贅沢は敵だ」のスローガンがあった時代。遊郭や花街は休業や廃業、ないしは縮小という風潮があった。
ここ金津も遊郭とは名乗らず、特飲街、それも地名を取って表向きは「手力特殊飲食店街」ということになっていたそうである。
先述の風潮と物資の不足から妓楼のような華美な建物は建たず、おおむねバラックじみたアパート風のモノが多い。
郊外であったために空襲の被害はなく、当時の建物が比較的よく残っている。
ただ、妓楼やカフェー建築は皆無なのでそういうのを期待してくると少しガッカリすると思う。
いずれにせよ、現在は閑静な住宅街でしかないので、そっと風のように散策することをお勧めする。
冬の朝というのは実にいいものだと思う。
早起きして歩く…寒さに心が洗われるような感覚。それが初めて歩く場所であればなおのことである。
さて、手力園で最も有名だと思われる遺構がコチラ。
いかにも、という長屋である。
そこに残るひょうたん。正直これが見れれば満足していいと思う。唯一とも言える往時の名残である。
手力園(金津遊郭)は、戦後は進駐軍向けの慰安所としての営業を余儀なくされたという。
まぁこれは相当儲かったことと思うが、移転にしてもこの件にしても、業者たちにとっては本意ではなかったらしい。
いつかはまた市街地に戻りたい…という野望を持ち続け、色々水面下で動いたものの反対運動などで成果は上がらず、最後の最後に泣きついたのが加納水野町の地主であった。
この加納水野町こそが、現在金津園がある場所に他ならない。
そうして晴れて昭和25(1950)年の秋、あたかもUターン転職のようなノリで金津遊郭は再び市街地に舞い戻ったわけである。よかったですね。
かつての指定地には掘割が残る。
ではその後の手力園はどうなったのか。
残された建物は、一般住宅として市民に売却されたという。これにて普通の住宅街として再出発。めでたしめでたし。
…なんてオチだったらこうしてわざわざ後日談など書かない。
移転と言ってもここに残った業者もおり、住む人は変われど家の間取りが変わったわけではない。
元業者をはじめ、ローン返済のために一般人までもが「商売」を始めるようになってしまったとか。
一度は書類送検されるものの、結局最終的には当局から黙認されるようになり、青線として昭和58年のあの法律が施行されるまで存続したという。何ともすごい話である。
ここまでの話は、『敗戦と赤線』(加藤政洋著)を参考にさせていただいたものである。
実は手力園のことを知ったのも同書がきっかけで、それまではまさかあの金津園にこんな歴史があるなんて夢にも思わなかった。
歴史を知ることで普段とは違う見方ができたのは確かで、早朝という時間帯も作用してかなり印象に残るまち歩きだった。ずっと行きたかったから、というのもあったと思う。
半年以上かかったけどやっと公開できた…という安堵の気持ちが大きいです。今。
60年ほど前。ここには、今では想像もつかないような世界が広がっていたのである。
数奇な運命に翻弄された手力園。すべてを忘れてしまったかのような、安穏とした住宅街だけがただそこにあった。
[訪問日:2015年12月31日]
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