言うなれば…忘れ物を取りに戻ってきたような感覚だった。
1年4ヶ月ぶりにやってきた岐阜の地。目的は、前回時間がなくて叶わなかった金津園散策に他ならない。
改めて説明する必要もないと思うが、「金津園」とは岐阜駅南口徒歩3分、っていうかほぼ駅前に位置する巨大特殊浴場タウンである。
東海地方においては孤高の存在であり、むしろその名は全国区と言っても言い過ぎではない。
まずは現在の街並みから
金津園は、明治21年(1888年)に開設された「金津遊郭」が前身である。この辺りの話をしていきたいので、まずは現在の街並みを紹介しながら徐々に歴史を紐解いていこうと思う。
駅を出て西へ歩いて行く。結界の内部へ足を踏み入れたところでおもむろに振り返る。
はい、これが駅徒歩3分という位置関係(笑)
前回書いた通り、金津遊郭は元々柳ヶ瀬商店街のあたりにあったのを軍事政策により強制移転させられ、手力園として6年間不遇な時代を送ることになる。
昭和25年(1950年)、市街地に戻りたいという願いがようやく叶い、現在の地(加納水野町)に移転することになったわけである。元々は紡績工場の跡地であったという。
Wikipediaによると、このときの業者は60軒、場所取りはくじ引きで決められたとある。
ケンカになるからか、1軒あたりの広さは63坪ときっちり決められていたという。
すでに戦後だったことで「赤線」として営業していた業者たちも、売防法が施行されたことで昭和32年(1957年)12月31日で営業を停止。
当時あった67軒のうち41軒が旅館に転業している。
しかしその後、全国的にトルコが流行りだしたこともあり、一度旅館になった業者までもが再度転業していったという。
その結果、こういう奇抜な外観の店舗が立ち並ぶ、メルヘンランドのような街並みが出来上がったのである。
遊郭、赤線から現在までの変遷は、あの吉原と酷似している。
まぁ店舗数は比較になりませんがね。こちらは約50店、吉原の半分以下である。
あ、そうそう、ここまで普通に歩いてきましたが、金津園はオープンが昼頃なんで早朝であれば余裕しゃくしゃくで散策できます。
先に手力園に行ったのもそういう理由。あっちは住宅街なんで、住民が活動し始める前に…って思惑があり。
吉原でも見かけたけど、場所柄やっぱりこの手のお医者さんは必要不可欠。
しかし立地条件よすぎて儲かりそうっすね。
無料案内所にマップが掲示してあった。親切ですね。
しかしこうして見ても密集度合いが凄い。
9時頃に歩いたのに、すでに開店準備を始めるボーイさんたちの姿もちらほら見られ、そう言えば一回だけ呼びこみにもあったような・・
華麗にスルーしたけど、なんだったんだろう。もう開いてたのか、予約ってことだったのか。
この日は大晦日。朝から一年の最終日に相応しい青空が広がり、清々しい一日だった。
この街は、こんな日でも休めない業界なんだよな。ホント皆さんお疲れさまです。
次頁では赤線時代の遺構を紹介します。
(2ページ目へ続く)
コメント
意外と残っているのですね。
タイル張りの物件は本当に少なくなりましたから。
「鳩の街」も壊滅状態だし。
昔から歩いてるmaruさんが言うのですから相当減ったんでしょうね・・
鳩の街はあと二軒ですよね、変わってなければ。
「いろは」という店は木造です。昔の「遺構」を改造したと思われます。
一度行って見ては如何でしょうか?
情報ありがとうございます。
一番角地にあるお店ですかね。確かに遺構のような趣きがあります。
今度岐阜に行く機会があればじっくり見てきたいと思います。