栄華の名残を探し求めて。『大塚三業地』を歩く

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豊島区大塚。
わずか一駅の距離にありながら、「池袋」の存在感に霞んでしまい山手線マイナー駅の常連に甘んじているちょっとかわいそうな街である。

ところが、戦前には都内でも有数の三業地があって、相当な賑わいを誇った歴史がある。
そして、花街の灯はまだ消えておらず、今でもわずかながらその名残を見ることができる。

そんなわけでやって来ました大塚駅。大好きな都電荒川線が走る街。それだけでもうテンションだだ上がり。

ロータリーの東側にあるバッティングセンターとセブンイレブンが入居するビルに挟まれる形で、申し訳なさそうに伸びる細い路地が見える。

路地の入口には「大塚三業通り」と書かれたシンボル灯があり、その上には芸者さんを象った像が置かれている。
ネオン管が壊れた古ぼけた先代を撤去する形で、平成26年にリニューアルしたそうだ。

三業通りを歩き出してすぐに目につくのが、花柳街につきものの病院と現代の連れ込み宿。

その奥には創業が明治時代と言ううなぎ屋さん「宮川」。これ以上ないというぐらい分かりやすすぎる花街チックなフォーメーション。

次に気がつくのが、この無駄に蛇行してる通りの形。これは、かつてここを流れていた「谷端川」を暗渠化した名残で、大塚花街はこの川の北側を指定地として出発した。

いかにも老舗じみた料理屋も多く、こちらの「千草」さんには…

「料てい」のプレート。
そうか、これ書いた人はきっと「亭」の字がわからなかったんだな。
無理もない・・まだグーグル先生もいなかった時代だもの。

“銀座に負けない寿司を出す”と言う触れ込みのお寿司屋さん「鮨勝」。
※食べ○グで3.6とかついてました。すげ・・

で、その横にある電柱を、いつもの調子でチェックしてみた。

三 業

お、おう・・

目の前には、花街情緒満天の黒塀。

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大塚三業地の歴史とか

花街の原型が出来たのが大正9年。
大正11年に指定地の許可を受け、大正13年には「待合」が許可され正式な三業地となった。

このとき、待合18軒、料理屋85軒、芸妓は約200人だったそうだ。(『東京花街・粋な街』より)

昭和6年には料亭22軒、待合61軒、芸妓屋68軒、そして芸妓数が約260名とあり、おそらくこの頃がピークだったと思われる。

老舗割烹『松し満』

関東大震災ではほとんど被害がなかったが、東京大空襲で灰燼に帰してしまう。
戦後復興するも、キャバレーが登場したり、遊び方の変化で昭和30年代から衰退。

というのが大筋の歴史となる。

(2ページ目へ続く)

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コメント

  1. 定マニア より:

    廃墟ホテルAOIの近くで働いています。地元の人の話では、大学入試の為に上京して、宿泊していた学生が火事を起こしてしまい、ずっと放置状態のようです。私が勤務したのが5年前ですので、それよりも前のことだと思います。一昨年でしたか、「看板が飛ばされそうです。何か生き物が住み着いている。虫の大量発生で困る。」といった貼り紙がしてあり、所有者になんとかしてほしいのだろうなと感じました。数日後に、貼り紙がなくなっていたので、所有者は近くに住んでいるのかな。ホテルニュージャパンより長い放置?

    • mast-mo より:

      なんと。火事が原因だったのですか。ちょうど私が行ったときも二日前の日付で貼り紙がしてあり、「害虫とハクビシンで困っている」と書かれていました。
      建物がずっとこの状態なのは、所有者としてもどうにもできないからなんでしょうかね。