亀戸天神裏にあった花街と銘酒屋街

東京都
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亀戸の花街としての歴史はかなり古い。明治時代に工業地域として発展。その流れを汲んで日露戦争後に「城東花柳街」という三業地が誕生した。

関東大震災で東京が焼け野原となったが、幸いこの界隈は焼失を免れたために浅草十二階下の銘酒屋が一部移転してきた。(一部は玉の井へ移転)
そんなわけで、花街と私娼街が混在する渾然一体の色街が誕生した。しかも「遊園地」と呼ばれていたとか。
まぁ、確かに大人にとっては遊園地ですよねw

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僅かな名残を求めて

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天神社のすぐ裏手あたりはかつての三業地。
現在は自治会館となっている、元検番。

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そのすぐ近くには銭湯「天神湯」さん。いつからやっていたのか定かではありませんが、赤線時代からあったことはおそらく間違いないでしょう。

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私娼窟は天神湯の北側に広がっていたそうだが、実は1945年(昭和20年)の東京大空襲で跡形もなく焼け落ちてしまって今では往時の面影はまったくない。

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戦後は赤線に移行し、昭和30年の時点で業者92軒、従業婦315名というから普通に存続していたようではあるが、この当時の名残も今では皆無に等しい。
古い家屋は見られるが、いかにも転業チックなアパートや旅館は一切見られなかった。

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ちなみに戦前は玉の井然とした細く曲がりくねった路地のある町並みだったそうだが、復興とともに道路も直線化されてしまったとのこと。
先述した城東三業組合も平成9年に解散してしまい、現在では花街としての歴史は事実上幕を閉じてしまっている。

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花街が衰退したのは、高度経済成長期の公害が原因で工場が移転していき、跡地が宅地化されていったことによる。男性の街からファミリーの街へ。
存続が厳しくなっていったことが容易に想像できる。

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北へ歩いて行くとやがて天祖神社にたどり着く。亀戸天神からこの天祖神社に挟まれたエリアがかつての私娼街。やはりここまで来ても目を引くような物件は遺っていなかった。
と言いたいところではあるが、実は一軒だけカフェー建築が遺っていることを後に知る。。それはこのとき通らなかった通り沿いにあった。ああぁ。

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緑色を前面にしつらえた床屋さん。色街の名残のような気が。

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天祖神社前で右に折れ、細い路地を東へ進む。もう一ヶ所寄りたいところがあったのだ。

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途中にあった梅屋敷跡。江戸時代にできた商人の別荘で、梅が多く植えられていたので梅屋敷と呼ばれていた。花見の名所として相当賑わったと書かれている。

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細い路地に入り込んだらいよいよ下町風情全開になってくる。車が通れない幅の路地に家々が密集し、自転車が大量に置かれる光景。あぁこれが東京だよな、と実感。

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下町が好きなのでこういうところに住みたいと思うけど、ちょっとライフスタイルに合わないので二の足を踏んでしまう。
そもそもボロアパート以外の賃貸が少ないし、新しいところは家賃もお高め。

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というわけで目的地に到着。スポーツの神様として知られる香取神社。

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ここに、昭和3年11月に亀戸三業組合が建立した石碑が残っている。
この地に花街があったことを確かに示す物証。

ここから真っ直ぐ南下すると亀戸駅に出るので帰りは楽ちん。路地に入り込むとスマホから目が離せなくなるので、撮影しながら歩くのが大変なのだ。

そんなわけで亀戸散策はこれにて終了。実はその足で洲崎へ向かったのだが、そのときの話はまた後日。

[訪問日:2014年5月24日]


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