洲崎遊郭跡探訪~失われたパラダイスを訪ねて~

東京都
この記事は約2分で読めます。

1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』を紐解くと、洲崎は業者数268軒、娼妓数約2500人。吉原の295軒、3500人にはさすがに及ばないものの文字通り双璧を成す規模であった。
戦後、焼け野原から始まった洲崎パラダイス時代の全盛は昭和29年(1954年)、カフェー220軒、従業婦800人を数えた。
長く栄華を極めたが1958年に赤線の灯は消え、現在では色街の名残ももはや風前の灯と言える。

スポンサーリンク

夢の跡

0022

さて、もう少し付近をウロウロしてみたので懲りずに続きを書いていくことにする。

0023

今度は大門通りの西側、当時の弁天1丁目を歩いてみた。
先述のとおり、戦後は東側の弁天2丁目がパラダイスとなったが、1丁目にも数軒あったようでこのボロアパートがおそらく当時「幸松」という屋号があった場所になる。
転業アパートですかね?

0024

他にはこんな感じの古い家屋がちらほらある程度。

0025

ふたたび東側へ戻ってきた。遊廓の南東部に都営のアパートがある。アパートっていうかどう見ても団地だけど。
ここはかつて警視庁洲崎病院と三業組合事務所があった場所で、敷地内に娼妓たちの供養碑が建てられている。

0026

長野善光寺から尼僧を招いて慰霊祭を執り行った旨がつらつらと書かれている。

0027

建立したのは三業組合。
遊郭の繁栄の裏には、過労や病死により若くして命を落とした娼妓たちが大勢いることを決して忘れてはならない。

0029

「京三」という屋号のお店があったと思われる場所にいかにもそれっぽい建物が残っていた。

0030

怪しさ満天。もうちょっと寄ってみましょう。

0028

ジュウハッサイミマンノカタノタチイリヲオコトワリシマス。
Oh…

0031

遊郭の西側に、かつて遊女が信仰した洲崎弁天社(現洲崎神社)があるのだが、亀戸から歩き通しでさすがに疲れたのでここで試合終了。大門通りのサンクスでレッドブルを投入した。
ついでにと、帰りがけに洲崎川緑道公園にちょっと寄ってみた。朝にジョギングしたら気持ちよさそうな雰囲気であった。

こうやって街の風景とともに歴史そのものもいつしか忘れ去られていくのだろうか。
儚さに包まれながらパラダイス散策は幕を閉じた。

[訪問日:2014年5月24日]

コメント

  1. 秋葉 邦彦 より:

    ここって根津遊郭が移転したところですよね?

タイトルとURLをコピーしました