岡山を出発した快速マリンライナーは、児島半島を縦断し、鷲羽山をかすめながら瀬戸内海へと滑り込んで行く。
四国入りを果たす数多の手段の中で、最も気分が高揚する瞬間である。
10kmにも及ぶ瀬戸大橋を渡り始めるそのとき、眼下に見えるのがかつて北前船の往来で繁栄を極めたまち、「下津井」である。
瀬戸内海に面した下津井は古くからの港町。
江戸時代中期以降は北前船の寄港地となり、対岸四国へ金毘羅参りに向かう人々の宿場町としても大いに賑わった。
まだかな橋
また、風待ち、潮待ちをする内海航路の船なども行き交い、港は沸き立つような賑わいだったそうだ。
そんな歴史があれば、やはり下津井には遊郭があった。
その名残を示すのが、漁港近くにある「まだかな橋跡」である。
陽も沈み町の行燈に赤い燈がともると、中波止の橋のたもとから船頭や船乗りたちに、
『まだ(遊郭にあがらん)かな』
と、声をかける婆がいた。いつともなく橋は「まだかな橋」と呼ばれるようになった。
こんな案内板と、欄干に使われていたという親柱が残っている。
何だろうこの興味深い名前は・・とワクワクしながら読んだのに
ポン引きの掛け声やないかい(笑)
歴史って奥が深いですね。。
むかし下津井回船問屋
下津井観光で外せない定番スポットがこちら。明治時代の廻船問屋の建物を復元した「むかし下津井回船問屋」は、当時の商家の様子やまちの歴史を学ぶことができる。
まずは北前船によっていかに下津井が繁栄したかを勉強しよう。
まだかな橋の写真もあった。
ここで船乗りとやり手婆のしのぎを削る攻防戦がくり広げられたのか・・
実に感慨深い。
まちなみを見る
科学の進歩を象徴するかのような瀬戸大橋と、江戸時代から残る町家が同じ構図に収まるのが下津井というまちである。
日本広しと言えど、これほどエモーショナルな町並みもそうそう見られるものではない。
昔ながらの建物は漆喰壁になまこ壁、虫籠窓や格子窓を備えており、屋根は本瓦葺。それゆえ歴史的な雰囲気をよくとどめている。
重伝建ではないが、昭和61年に県の町並み保存地区に指定されており、よく整備された町並みが続いている。
明治時代に輸送が鉄道にシフトし北前船が衰退していったことはよく知られた事実であるが、ここ下津井も例外ではなく、1911(明治44)年に軽便鉄道が開業し、3年後に下津井まで延伸された。(保存地区から西へ1kmほどの場所に旧下津井駅跡がある)
その当時は金毘羅参りの時代から続く丸亀への航路があって、下津井は商港であり旅客港でもあった。
昨年廃止されたことが記憶に新しい「宇高航路」の他にも、本州と四国を渡す連絡船があったのだ。
とは言え、直接高松入りができる国鉄との差は大きく、さらに1988年には瀬戸大橋が開通。これが決定打となり、1991年に下津井電鉄は廃線となってしまう。(それでも、下津井~丸亀航路は1999年まで存続した)
北前船の時代から歴史の波に激しく揺さぶられ、幾つもの紆余曲折を経て今の下津井の町並みがある。
歴史を知ると、やはり現地の景色も違って見えてくるから面白い。
知るだけでも歩くだけでも不十分で、両方が揃ってこその体験であると思う。
ちなみに下津井は地名にも変遷があって、明治40年に下津井町が誕生する。
戦後、昭和23年に児島市となり、昭和42(1967)年に玉島市を含む三者合併で倉敷市となった。
ゆえに現住所は「倉敷市下津井」。下津井という町はもう存在しない。
通りは山裾を巻くように何度か方向を変えながら、再び東へと進路を取る。
このあたりが最も栄えた時代の雰囲気をとどめていた。
チャリンコに乗ったおっちゃんも実に絵になる。
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