民謡のルーツ「牛深」探訪記 ~最果ての遊里を目指して~

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最高指導者「くまモン」が支配する熊本県。


日本三名城の熊本城や“火の国”の由縁でもある阿蘇山のイメージが強い県ではあるが、天草諸島を忘れてはいけない。
この天草に初めて足を運んだ。

実際に行ってみて痛感したのが、このあたり、長崎~熊本~鹿児島にかけては他県の人間からしたら島多すぎ、地形が複雑すぎで何がなんだかワケがワカラナイエリアである。

天草諸島も、熊本でありながら熊本市内からはエラい遠い。場所によっては海をまたいで長崎や鹿児島のほうがはるかに近かったりするし、陸路で行くのはしんどいところだ。

 

くまモンの支配はこんなところまで及んでいるのか・・

 

妙なところに感心しながらたどり着いたのは、陸の孤島と言うコトバ以外思いつかないような、「牛深」なる港町であった。

熊本市街地から実に120kmも走っていた。

天草の最果てに当たる牛深は、江戸時代から天然の良港、また風待ちの港として知られてきた。また、海上輸送の中継地としても機能し、方方の文化がもたらされた。

そんな背景を元に生まれたのが、民謡のルーツとも言われる「牛深ハイヤ節」だ。
阿波おどり、佐渡おけさ、北海道のソーラン節など、ハイヤ系と呼ばれる民謡のルーツとも言われている。

各地を行き来する船によって、牛深のハイヤ節が全国に広がっていったのである。

道の駅にある牛深ハイヤの像

そんな知られざる深い歴史を秘めた牛深には、かつて遊郭があった。
現在は陸の孤島でも、昔は天草随一の港町だったのだ。当然のことと言えよう。

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遊郭跡へ

牛深の遊郭は国道の山の手側、道の駅からほど近い古久玉(こくたま)というところにあった。
※現在は天草市牛深町

現地へ向かう道程にはスナックが点在していた。

牛深に遊郭設置が許可されたのは明治7年のことで、最盛期の明治30年頃には20軒ほどがひしめいていた。

しかしながら、明治末期には3~4軒ほどの規模になり、以後は同程度で推移していったようだ。

ちなみに、戦後については『全国女性街ガイド』に以下の描写がある。

天草南端。ここまでくるとまったくの孤島の感じ。八軒の旅館に女が入る。赤線は七軒で、この種の女は三十五名ほど。本島人が行くと猛烈によろこぶ。その慕わしそうに見る瞳の色は、行かないとわからない。

輸送の中心が鉄道になった以降も一定の需要があったことに驚かされる。
漁業関係者や地元の人たちを相手に細々と続いていたのだろうか。

(あっ・・)

熊本のはこのとき初対面。
かつて見た佐賀や鹿児島と一緒のタイプだった。

(九州は大体これだったのかな?)

思いがけぬ収穫に俄然テンションが上がってきた。
遠路はるばる来た甲斐があったってもんだ。(いやホント遠かった)

ちなみに筆者は熊本駅からクルマで来たが、公共交通機関の場合は鹿児島の出水からバスとフェリーで行ったほうがよいと思う。そのほうがはるかに近い。

飲み屋やスナックの数が多いことが、街の歴史を確かに物語っていた。

ただ、ここはまだ周縁部である。遊郭は右手に見える道を進んだ山の麓にあった。

スナックばかり眺めてても仕方ない。
そろそろ本丸へ向かおう。

(2ページ目へ続く)

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