天草の牛深は、元々は牛深市だったのが平成の大合併で天草市になった。
“民謡の源流”とも言われる「ハイヤ節」発祥の地である。
「牛深」の名が消えることに反対はなかったのだろうか。
その牛深ハイヤ節は、遊郭の宴席でも披露されていたそうだ。
と言うか、各地にハイヤ節が広がっていった由縁となったのが遊郭だったのではないかという気がする。
諸国の船乗りたちが風待ち、潮待ちで滞在したであろうその建物は、奥まった山際に今なお静かに佇んでいた。
屋号を「三浦屋」と言った元遊郭の建物。否、貸座敷と言ったほうがいいだろうか。
傷んではいるが、品の良さを伺わせる素晴らしい建物だった。
なお、ここの少し手前に『紅君亭』と言う元料亭のような大店があったが、こちらは既に解体され真新しい戸建てになっていた。
遅かったか。
煉瓦塀がすごく印象的だった。遊郭ではあまり例がないと思う。
裏手に回ると全体が見渡せた。
二階に宴会場があったそうである。
時化で出漁できない日や牛深に滞在した船乗りたちが、どんちゃん騒ぎをくり広げた場所。
牛深ハイヤ節が民謡の源流となった場所。
あの阿波おどりがこの場所に繋がっていると思うと、何かすごく不思議な心持ちになった。
新銀取り
江戸時代、薩摩と大坂を行き来した「弁財船」がここ牛深に寄港していた。
船乗りたちは、当時上方で流通し始めた「新銀」と言う通貨をサービスの対価として牛深の女性に渡したそうだ。(おそらく一夜妻、現地妻のような女たちだったのだと思う。遊女と言う説も)
この女性たちを「新銀取り」と呼び、新銀取りが船の出迎えや見送りのために上り下りした「新銀取坂」が今も残っている。
※場所は下須島へと渡る通天橋の付近。ここからはやや離れている
遊郭の遺構としては最後の一軒となってしまった三浦屋。
これだけでも見れてよかった。
この土地に染み付いたいくつもの物語を知るには、あまりにも時間が短すぎた。
牛深で使うことを許されたのは、昼食込で2時間。
本音を言えば、その土地で一夜を過ごし、現地の人から話を聞いたりしてみたい。そう思いながら、旅先ではいつも時間に追われるようなあくせくとした過ごし方になってしまう。
現実と理想の間にはいつだって深い溝が横たわっている。
それでも、色々な土地に足を運び、そこに息づく文化や歴史を目で見て肌で感じたい。
行けないよりは行けたほうがいい。死ぬまでになるべく多くの景色を見たい。
そんな貧乏根性丸出しの精神で、これからも旅を続けていくのだろう。
海上輸送の要衝として賑わった牛深の港。
その地に置かれた遊郭。
各地の文化の結節点となり、船乗りらによって“民謡の源流”となった牛深ハイヤ節。
多くの興味深い歴史を知ることができたのは自らの足で現地へ赴いたからであり、それなくしては決してなし得なかったことである。
イタリアの著名な建築家によって設計された、建造物と言うよりは芸術作品のような美しい形のその橋は、「牛深ハイヤ大橋」と名付けられている。
この橋と牛深港を眺めながらのランチは、何物にも代えがたい贅沢な時間だった。
[訪問日:2019年10月11日]
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