発祥は江戸時代の乾物問屋街。天満・菅原町の「蔵のまち」を歩こう

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江戸時代、諸国の産物の集散地だった大坂は「天下の台所」と呼ばれた。
現在の天満橋から天神橋にかけての大川沿いには『天満青物市場』が開設され、野菜とともに全国の乾物が集まり、そこで取引され各地に流通していったそうだ。

天満青物市場はすなわち現在の南天満公園にあたる。

乾物ははじめ青物商が一緒に店先に並べていたが、次第に専門で取り扱う店が登場し、市場の西側に乾物問屋街を形成した。
これが現在の菅原町界隈で、今でも乾物問屋や蔵が残り当時の面影を今に伝えている。

八軒家浜から天神橋を望む

そんなわけで、久しぶりにやってきた天満橋。うむ、いい天気だ。

天神橋の上から川向こうに視線を投げると、南天満公園が阪神高速のあたりまで伸びている。
公園に面して低層のビルがいくつか見えるが、菅原町はちょうどそのあたりである。

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天満蔵めぐり

どうやってここのことを知ったか今となってはまったく思い出せないが、調べてみると市が「天満蔵めぐりマップ」なる地図を作成したばかりで、観光スポットとして紹介していたことが訪問の動機となった。

菅原町の最も大川に近い通りを歩くと、アンチエイジングされてはいるものの確かに古そうな建物がちらほらと残っている。

ところで乾物とは何ぞやと言う話を一応しておくと、海苔や昆布を始め、寒天、干し椎茸、干しかんぴょう、切り干し大根など保存に適した状態に加工された食品全般を指す。

加工品自体が少なかったであろう昔は、今とは比べ物にならないぐらい流通し、消費されていたそうだ。

とことこと歩いて行くと、おもむろに袖うだつの上がった立派な建物が出てきて衝撃を受けた。
いかにも商家やってました的な趣きである。

隣もすごい。
別々の建物だと思われるが、3棟が連なって現存している。

最も勢いのあった大正年間にはなんせ200軒を超える問屋が集積してたそうなので、すべての通りにびっしりとこんな感じで立ち並んでいたのだろう。

そんな圧巻の光景は今や望むべくもないが、残った建物は没個性的な現代の都市空間の狭間で強烈な個性を放っている。

まさか大阪の、しかも中之島のすぐそばにこんな古い町並みが残っているとは。
現地に居てもなおそんな思いだったが、実は菅原町は戦災を免れている。じゃなきゃこんな建物あるわけない。

阪神高速をくぐったところに、菅原町「蔵のまち」の案内板があった。
このまちのあらましや蔵の特徴などが書かれている。

向かいに建つのは老舗乾物問屋の「北村商店」
今の社屋は新しいけど、創業はもちろん江戸時代。

その傍らに「たいへいはし」と書かれた石柱がやや控えめに建てられている。

実はその昔、今の阪神高速の真下を「天満堀川が」流れていて、大川と合流するこの場所に『太平橋』なる橋が架かっていた。
そう、つまりこれは今はなき太平橋の親柱なのだ。

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