丸亀を後にし、その足でやってきたのは電車で二駅先の多度津町。
申し訳ないことに多度津という街のことはこのとき初めて知ったのだが、調べてみると予讃線、土讃線の接続駅である上に、江戸時代には丸亀と同様こんぴら参りの港町として栄えたということがわかってきた。
なるほど、そんな歴史があればこの地に遊郭が置かれていたのも納得ができる。
そう、訪問の動機はこの遊里であった。
東浜と西浜
近くの桃陵公園に車を停め散策開始。同公園はかつて多度津城があった本台山(多度津山)に整備されており、その山と多度津港に挟まれた西浜というエリアがかつての遊里であった。
歩き出すと程なくして料亭が一軒現れる。
畳みかけるように色街の名残が続く。
結論から言うと、今回の旅で訪れた色街の中で、期待値と満足度のギャップが一番大きかったのがこの多度津であった。
西浜に対して、東浜というエリアが県道を挟んだ反対側に位置する。遊郭だった西に対し、東のほうは商店街だったそうである。
が、どうもその境目は曖昧だったのではないかと思っている。それについてはまた後ほど。
『赤線跡を歩く2』にも掲載されている元妓楼はまだ存命だった。
ちなみに、筆者が苦心の末に同書を入手したのは今年の2月。つまりここの訪問後。
なので、ほぼ同じアングルになっているのはまったくの偶然であると念のため付け加えておく。
昭和5年の『全国遊廓案内』によれば、貸座敷は19軒、娼妓は約120~130人いたとある。
愛媛、福岡の女が多い。居稼ぎ制で送り込みはやらない。廻しは取らない、とも書かれている。
お抱えで1軒につき平均6~7人くらいいたという計算になろうか。それなりの規模を持つ色里だったことがわかる。
しかしながら、寄港地、こんぴら詣、鉄道の基点と時代とともに姿を変えながらも要所として繁栄してきた多度津も、今ではすっかり寂れてしまった感が否めない。
カフェーと呼べるのかどうなのか。なかなかどうして趣きのある建物があった。
多度津港からは、多度津沖に浮かぶ高見島、佐柳島への航路が出ているが、2008年までは多度津~福山間を結ぶフェリーが就航していたという。
瀬戸大橋に客を食われた格好とのことであるが、この出来事も現在の寂れ方と無関係ではないように思う。
東浜
気がつけば県道を越えて東浜へ足を踏み入れていた。先ほどのカフェーっぽい建物の二軒隣で見つけたのがこの看板建築。
今、地図を眺めてもこれと言って遊郭があったことを示す名残は見当たらない。
もし先人たちの足跡がなければ、たぶんこの場所にたどり着くことはできなかっただろうと思う。
郵便局がある通りを、多度津港に向かって歩いて行く。
んん?手を加えられているとは言え、なんとも艶めかしい建物だ。
少し寄せてみましょう。
その向かいにはこんなアパート。
弁柄色の壁と二階の欄干が素敵だったのでパシャリ。
なおも雰囲気のある建物が続く。先に歩いた丸亀と比べると、多度津のほうが古い町であることを随所に感じることができる。
唐破風と格子がいいっすなぁ。
やはり古い町は歩くのが楽しい。
(2ページ目へ続く)
コメント
いやいや、楽しませていただきました。
関西方面から向こうは、あまり歩いたことないもので。
いやはや、そう言っていただけるのは救いです。
今回は写真の数と裏腹に書けるネタが少なくて結構苦労しました(-_-;)
東浜の郵便局より海側は埋め立てられてるので、明治中期以降の建設です。町役場の方に話を伺ったところ、遊郭ではなく普通の旅館として営業していたそうですよ。金毘羅や善通寺へ来た人が船や電車が出る翌日まで泊まる宿だったそうです。
役場の方が仰っていたのであれば信憑性も高そうですね!
貴重な情報ありがとうございます。