言うならばただの口実である。
「四国随一の名湯に浸かる」
道後を訪れる理由で、これほど都合のよいものが他にあるだろうか。確かに湯も楽しみのひとつであったことは認めるが、実はそれ以上に心待ちにしていたことがあった。
かつて漱石が松山に中学教師として赴任してきたときの顛末を綴った『坊っちゃん』。その小説の中で描かれている『遊郭』の跡が、道後温泉本館のすぐ近くにあるのだ。
本館裏の路地を東へ。道はゆるやかに右手に弧を描く。古びた温泉旅館が登場し、徐々に場末感が空気を支配するようになっていく。
松ヶ枝遊郭
ここに『松ヶ枝遊郭』ができたのは明治10年(1877年)のこと。昭和5年発行の『全国遊廓案内』によれば、旅館の女将が「湯女」として客を取っていたが、風紀上よろしくないので一ヶ所に囲い込んだというのが成り立ちだという。
だらだらと坂を登って行くとやがてT字路へぶつかる。そこを東へ折れた先が他ならぬ本日の目的地である。
目の前には廃業したと思われるビジネスホテル。この旧松ヶ枝遊郭は、現在では「ネオン坂」の通称で呼ばれている。
そしてこの場所、ひそかに全国の遊び人諸氏の注目を集めるちょっと有名な場所なのだ。
有無を言わせぬ凄みで「吾輩は妓楼である」と主張するかのような建物。ここがネオン坂の入口である。
まるで一見の行く手を阻むかのように交通整理のおっちゃんが立っていた。
街区表示板に刻まれた日本最古の名湯の文字と、連綿と続く歓楽街としての歴史の長さ。両者に通底するなにものかに想いを馳せながら、厳かさにも似た足取りでいざネオン坂へと一歩を踏み出す。
ネオン坂を歩く
今立っている場所の目の前には、かつて「ネオン坂歓楽街」と銘打たれたアーチ状のネオンサインが建っていたそうである。
後を受け継いだのは、坂の上にある「宝厳寺」の石碑。ここは寺の門前町ですよ、とでも言わんばかりに、まるで言い訳でもするかのような大きさで旅人を迎えてくれる。
そのアーチの支柱として機能していた棒だけが今では残っている。真横には剥げた文字で「来人」と書かれたスナックだろうか、残骸がそのまま放置されている。
残念ながらもう“人”は“来”ない。
次に目についたのが国民的アニメと同じ名前の喫茶店。店先にいかがわしいフリーペーパーが置かれてる時点で、それはもう決して金曜ロードショーでは放映できない類のモノであろう。
放送事故の予感しかしない。
そしてファサードを観察すると、その佇まいが完全にカフェー建築のそれであった。
ご丁寧に袖看板のフレームまで残っている。
ドア周りに目を凝らすと・・なんと当時の鑑札までもが残っているではないか。
「カフェー」の鑑札、その実物を目にしたのは実はこのときが初めて。バス停でさつきから傘を借りたときのトトロのごとくテンションが上がったのは言うまでもない。
視線をずらすと、どう考えてもただの喫茶店には不要な案内板が目に止まった。
外すのが億劫でそのまま放置しているのか、それとも現在でも必要なものだからなのか。
どういうことかと言うと、ネオン坂と言えば一昔前までは「ちょんの間街」としてマニアに支持されていた場所だったのだ。
もちろん過去形であることにも相応の理由がある。
(2ページ目へ続く)
コメント
やはり時代の流れでしょうね、、、
かなり壊されているようで、、、観光地には相応しく無いと
判断されてしまったようですね。
カフェ-の鑑札には私も興奮しました。
時代ですかねぇ。私が行くのが遅すぎただけのような気もしますが(笑)
さびれる前を知らないので、「こんなもんかぁ」って思っちゃいましたね。