明治10年に成立した「松ヶ枝遊郭」。
昭和33年の売防法完全施行を経て、「ネオン坂」と名を変えたあともちょんの間街として色街の歴史を途切れることなく紡いできた場所である。
潰された街
坂を登り始めると、妓楼のなれの果てが残っていた。
こう見えても廃業前はスナックだったらしい。ドアのガラスは割れ、二階の窓は一枚外れている。
まるでネオン坂の現在を象徴するようで見ていて痛々しさが募る。
長年裏風俗として頑張ってきたネオン坂歓楽街も、その努力もむなしく摘発に遭い、完膚なきまでに叩きのめされてしまったそうである。
ほんの数年前の出来事である。
BARと書かれたお店。勝谷誠彦氏が『色街を呑む!』で書いていたのはもしかしたらここのことかもしれない。
しかし、こちらもご多分にもれず廃業してしまっていた。
繁盛していたであろう昔を偲ぶことができるのも、今ではカフェーの鑑札だけになってしまった。歴史というものはなぜかくも残酷なのだろう。
昭和5年の『全国遊廓案内』によれば妓楼29軒。昭和30年の『全国女性街ガイド』によれば昔ながらの遊廓23軒。
そこから推し量れる規模感を、目の前の風景に重ね合わせるといかに遺構がその数を減らしてしまったかがわかる。
距離にして150mほどであろうか。紹介してきた遺構たちよりも、空き地や駐車場のほうが明らかに多かった。
正面には宝厳寺が見える。初めて歩いたネオン坂は、完全に死んでいた。もう息を吹き返す日は未来永劫来ないだろう。
建物だけが地面からむしり取られたかのような無残な痕跡をとどめるこの場所には、三階建の妓楼とカフェー建築が同居した胸熱な物件が建っていたらしい。
往時の屋号は「夢の家(ゆめのや)」。
その名に違わず、夢のようにこの世から消えてしまった。
ネオン坂のてっぺんから下を見下ろす。宝厳寺の境内には、ここ松山出身の俳人、正岡子規の句碑が建っている。
色里や 十歩はなれて 秋の風
かつて子規は、友人であった漱石とこの寺の石段に腰かけこの句を詠んだという。
そのとき二人が見た風景は、坂の両側に豪奢な妓楼が立ち並ぶまさに「十歩先の異界」だったのであろう。
そもそもこの宝厳寺は、時宗の祖である一遍上人の生誕地。
由緒ある寺院の門前町に遊郭ができたのである。土地は寺のものであり、代替わりの営業を認めてくれなかったそうである。
しかし、一代目の命が尽きる前に無情にも人間の手によって壊滅させられてしまった。
坊っちゃん、正岡子規、お寺、そして遊郭。
歴史と文学の匂いのする、文豪たちに愛された温泉街の裏に存在した色街。
明治時代から続く歴史あるその場所は、今、静かにその最期を迎えようとしていた。
たかが100年などと言うと一笑に付されてしまう歴史を誇るのが、日本三古泉を謳う道後の温泉。
温泉街の南にある道後公園には、日本最古の湯釜がある。奈良時代に造られたもので、本館が建つまでの約1150年、絶えずこんこんと湯が湧き出ていたという。
歴史散策と温泉というイメージの強い道後の街。
しかし、光と闇はやはり表裏一体である。背中合わせの場所に、負の象徴として消し去りたいと望まれる街がある。
訪れた際は、是非裏の顔も覗いてみてはいかがだろう。
[訪問日:2015年1月1日]
コメント
やはり時代の流れでしょうね、、、
かなり壊されているようで、、、観光地には相応しく無いと
判断されてしまったようですね。
カフェ-の鑑札には私も興奮しました。
時代ですかねぇ。私が行くのが遅すぎただけのような気もしますが(笑)
さびれる前を知らないので、「こんなもんかぁ」って思っちゃいましたね。