再び山形へ。真夏の山形市・小姓町へくり出す

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昨年、訳あって東北地方へ実に4回も訪れた。その理由は・・いつの日か明かせれば、と思う。
そんなわけで7月の3連休、GWに続きまたしても山形の地を踏むことになった。

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新宿23:15⇒山形05:40
9時にレンタカーを予約しているので、それまで市内の遊里をぶらぶら歩いてきた。
駅舎を撮ろうとしたらミラーレスがぶっ壊れてることに気づき、急遽デジタル一眼を起用する羽目に・・。
おかげでコインロッカー二回分(600円)取られてしまった。幸先悪すぎ。

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まず訪れたのは山形市内、小姓町にあった遊郭跡である。山形駅から大門通りまで1.2kmほど。散歩にほどよい距離。

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ここの遊郭が成立したのは明治17年(1884年)。市内に散在していた貸座敷がまとめられ・・という定番の生い立ちである。
20軒、180~190名からのスタートだったそうである。(『遊郭をみる』より)

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戦後は赤線となった小姓町は、現在は「石だたみロマンロード21」なる、ピンコロ石が敷かれ風情を醸す通りに落ち着いている。
スナックビルをはじめ夜の店が点在し、盛り場だった名残は今でも健在である。

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しかしまぁ・・色街めぐりにデジイチ(デジタル一眼レフ)ほど不釣り合いなモノもないな。重いし。被写体的にはコンデジやスマホでもいいぐらいだと思う。

まさに真夏の朝の悪夢である。とは言え、長年旅してればこんなこともたまにはある。

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小姓町遊郭は、開業から10年後の1894年に大火で全焼してしまう。しかし、それまでにたんまり稼いだのか、普請が従前よりグレードアップしつつ、たちどころに復興したという。
それにより、その名を全国に広く知られることになる。

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大門通りが尽きるところに…

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大門通りを突き進むと、城下町特有の鉤型の路地が現れる。
ちょうど折れ曲がるところに建つ、正面の白い建物。これが・・

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「山形県生活衛生会館」と書かれているが、かつてここは娼妓たちが“定期検診”をするところだったという。
業務的にも、なんとなく系譜を有している感じを受ける。

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鉤型の路地。左側が衛生会館。
この先(背中側)が、廓の東端になる。貸座敷は、大門通りと並行する一本南の路地に集中していたそうなのでそちらへ向かってみる。

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そこには遊郭につきものの稲荷神社(東前稲荷神社)が。
200名近い遊女たちの信仰を一身に集めていたであろうことは想像に難くない。

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沿革を伝える案内板に、遊郭のことが書いてあった。

城主秋元涼朝の文政四年(1821)城下の宿屋に遊女を置きたき申出あり、発展のため許可す。明治十七年より同三十年頃まで、市内の貸座敷業者が集結し、小姓町遊廓となり、明治、大正、昭和と、六十年間にわたって歓楽街として繁栄せり。

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この鳥居ができたのは大正14年(1925年)12月のことだそうで。

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その稲荷神社の横に、古ぼけた旅館が一軒。

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界隈で唯一の旅館は、かつての「萬亀楼」の跡地。確証はないけどおそらく転業の類でしょう。

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旧岡野屋楼があった場所に残る土蔵。現在はお米屋さんとなっている。
遺構だろうか。

ところでこの岡野屋楼、鉤型路地前の交差点からこの土蔵までが奥行となっていて、歩けばいかにそれがでかいかよくわかる。
というか、大門通りに立ち並んでいた貸座敷は、すべて奥行がその長さ。
そのあたりからも、豪奢な妓楼が軒を連ねていたという往時の繁栄っぷりを感じることができる。

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この公園は、かつての新芳楼の跡。どんだけでかいんだよ。

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大門通りには、見返り系の柳が植えられていた。
まぁ当時からあったものではないでしょうが、雰囲気出ますねやっぱり。

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見どころという点では「当たり」とは言いがたいけど。
「北の山形、西の岐阜」と、かの金津遊郭と豪華さで比肩するほどの規模だったという小姓町。

100年前に想いを馳せつつ、次なる場所へ向け歩き出した。

[訪問日:2015年7月18日]

〒990-0032 山形県山形市小姓町


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