みなとみらいや中華街を擁し、若者に人気の街として常に上位にランクインする神奈川の県庁所在地、横浜。
2009年に開港150年を迎えた歴史あるこの街には、かつて遊郭が存在していた。
始まりは、現在横浜スタジアムがある横浜公園に1859年に開業した港崎遊郭(みよざきゆうかく)である。
岩亀楼(がんきろう)という大店があり、現在も石灯篭が残っている。
余談だが、この遊女屋はアメリカ領事のハリスが開港の条件として要求したものらしい。
下田に「ハリスの小径」といういい感じの遊歩道が海沿いにあるのだが、幕末に想いを馳せながら散歩したかつてのクリーンな思い出がこの衝撃の事実でガラガラと音を立てて崩れた。
とんだ助平親父だったわけだ・・
動揺から立ち直るまでかなりの時間を要してしまったが、気を取り直して続きを書きたいと思う。
港崎遊郭は、1867年に肉屋が起こした大火(「豚屋火事」という酷い名前がついている)で全焼。移転して吉原遊郭(現在の羽衣町あたり)となるが、1871年に再び火災で焼失。
1872年に高島町に移転(高島町遊郭)するが、またしても全焼。そして、1880年(明治13年)に永楽町に移転し、お隣の真金町と併せて「永真遊郭」として売防法完全施行の1958年(昭和33年)までおよそ80年もの間存続する。
永真遊郭跡へ
というわけで現地へ。ここがかつて大門があったあたり。
下の地図で言うと、植込みがある通りの東側の信号がそれにあたる。
今でも遊郭跡地は当時の名残で整然と区割りされているところが多いが、永真遊郭はその典型と言える。
当時、永楽町と真金町の境界には川が流れており、大門通りに真金橋という橋が架かっていたらしい。
そして、その橋のたもと、この場所に先に紹介した岩亀楼があった。今はマンションになっている。
大門通りの突き当りの左側に、明らかに遺構と思われる建物が一軒。
そこに、永真遊郭が寄贈した石柱がある。『遊廓』の文字が見てとれる。
さて、大門通りは一通り見たので、さらに路地をくまなく歩いてみようと思う。
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