すぐ手前まで行っときながら、豊川稲荷には行かず門前町の怪しい路地裏だけ散策する。果たしてそんな頭のおかしい奴がいるなら会ってみたい。
えぇ、残念ながらいるんです…ここに(´・ω・`)
よく考えてみたらまぁまぁ痛いことをやってたんじゃないのか…って今さらながら思ってるわけだけど、まぁちゃんと自覚してるんだから特に問題ないだろう。
バラック酒場群
というわけで、今度は駅前通りの南側へ。三菱東京UFJ銀行を挟んだ両側に細い路地が直交しており、それぞれに盛り場の残滓のような一角が残されていた。
まずは東側へ。
ここがどういう場所であったのかは知る由もないが、別にそんなのは知らなくてもいい。いずれにせよ魅惑的な町並みであることは揺るぎない事実である。
市松模様…ではないけど規則的な配列で並ぶモザイクタイル。シックな配色は経年劣化でくすんでしまったせいだろうか。
この路地の雰囲気が実に香ばしくて素晴らしい。
今度は西側の路地へと向かう。
するとさっきの路地以上に香ばしい光景が目に飛び込んで来た。
左は更地になっているが、ここにも以前は同様のバラックがあったらしい。
空き地になってるもんだからずいぶん見通しがよい。
駐車場の向こう側に見えるのが、さっき見てきた「みほ」を含むバラック群。
こっちはあからさまに小料理、呑み屋のような佇まいである。
しかしながらそのどれもがおしなべて廃屋と化していた。
「春楽」の屋号が残る店には料理店の鑑札。ここも芸妓が出入りする店だったのだろうか。
警察署と防犯協会がそれぞれ用意したプレートには異なる年齢制限が記されていた。
19歳は警察的にはOKという解釈でいいんだろうか。
モノクロの世界のような光景に見入ってると、「店主はもう鬼籍に入ってしまったのだろうか」「かつてここで遊び、今なおご存命な方々は一体何人ぐらいいるのだろうか」
そんな野暮な問いかけが胸の奥から湧いてきた。
人はいつかは死ぬ。形あるものにはやがて終わりが来る。朽ち行くバラックを前に、浮世の儚さに思いを巡らせた。
古い町並みというのは色々考えさせられるもので、特に人の営みがなくなり、役目を終えた場所に足を運ぶと心に去来するのは決まって諸行無常の響きである。
戦後、昭和という時代に思いを馳せると、今ではもう何もかもが変わってしまった。あらゆるものが洗練され、飽食の時代と言われて久しい現代。
失われ行くものに触れるとき、我々が決して忘れてはいけない、失くしてはいけない何かを知ることができる。
豊川の路地裏に、大事なことを教えてもらった。
そんな気がした2016年の幕開けであった。
[訪問日:2016年1月1日]
コメント
その喫茶店入りました~!
味、値段も当時としては普通だったような。
その日の私のル-トは、豊川~豊橋~港陽園~八幡園でした。
車で一泊です。
おぉ入りましたか!
色街めぐり車中泊とは素晴らしいですね。しかもテッパンコース。
ちなみに次の記事が豊橋です(ネタバレ)
こんにちは。
私は円福に住んでいたことがあります。1972年頃から78年にかけて(小学校に上がる頃までの幼い頃)、元遊郭の建物に住んでいました。
今は取り壊されて別の家が建っていますが、ご指摘の通り、建物はニコイチとなっていて、続きの建物とは薄い壁で仕切られていました。隣の家の子どもと壁越しに会話した思い出があります。
2階建ての建物にはお風呂がなく、毎日銭湯に通っていました。お風呂はないのに、トイレは1階、2階の両方に付いていたのが遊郭の名残だと思います。
朱色壁の建物は、少なくとも1978年頃までは料理旅館として営業していました。
私の母は芸妓でした。置屋の場所は航空写真でのご指摘の通りです。「五月」の裏側のすごく細い路地にあり、幼い頃、置屋のおかみさんにお年玉をもらったり、ずいぶんかわいがってもらった記憶があります。
豊川稲荷の門前には今も料理屋がいくつか残っていますが、そのあたりが仕事のメインだったようです。三菱UFJ銀行の裏手あたりも花街でした。
こんばんは。
実話に基づいた貴重なお話。当時の情景がありありと浮かんでくるようです。また、円福に芸妓さんが住んでらしたとは驚きです。
長らく当時の建物が二軒だけの状態が続いておりましたが、件の朱色の建物は昨年末あたりですか、家主のお婆様が亡くなられて解体されたと聞きました。
非常に残念です。
三菱UFJ銀行の裏手あたりもやはり花街だったのですね。そうだと思っていましたがこれではっきりしました。
貴重なお話を聞かせていただいて本当にありがとうございます。