かつて三業地が置かれた文京区白山。そこでは、数こそ少ないが今なお往時の建物を見ることができる。
引き続き、旧指定地の範囲をくまなく散策する。予想通り宅地化がだいぶ進行していたが、細い路地だけは狭斜の巷の名残を今に伝えていた。
特に石畳に関しては文字通り当時のままであろう。この上を、一体どれぐらいの芸妓がそぞろ歩いたのであろうか。
待合「田川」
三軒目となる遺構、かつて「田川」という名の待合だったこちらは撮影スタジオとして余生を送っていた。興味のあるカメラマン諸氏は「和風スタジオ花みち」で検索すればよろしいかと。
二業地は料亭と置屋のみなので、純粋な待合というのはかつて三業地だった場所に限られ、それが今も残ってるとなるとかなりの希少価値ということになるだろう。
蛇足ではあるが、かの「阿部定事件」の舞台となったのが「尾久三業地」の待合である。
この通りは完全に宅地化の波に洗われてしまっていた。
かつて老舗料亭「青柳」があった場所。
旧料亭「松泉」があった場所。ここは近年まで残っていたので、ネット上でもちらほら生前の雄姿を拝むことができる。
これは・・関連物件なのかな?いや、普通の古民家っぽいな。近くで見かけたのでパシャリ。
何とも下町らしい風景。夏らしいひとコマ。(行ったの春だけど)
結局花街の名残らしい名残は紹介してきた三軒だけ。
それでも、変わらない路地と石畳で十分過ぎるほど雰囲気を感じることができた。ついでに付近をしばし散策。
これは戦前の看板建築でしょう。およそ文京区のイメージとかけ離れている感じがなんか心地よい。
こちらも戦前系かと。
旧三業地の近くにある「富士見湯」。昭和12年創業の超老舗銭湯である。
待合へ向かう嫖客たちもここで身を清めたことであろう。
樋口一葉終焉の碑
明治28年に『にごりえ』を発表した樋口一葉。その後のことをご存知だろうか。
「結核のない世界へ」というACのポスターを見たことのある方は覚えているかもしれないが、一葉は翌明治29年、肺結核によりわずか24歳という若さでこの世を去った。
白山通り、白山駅と春日駅の間(ほぼ春日寄り)に一葉の功績を称える石碑と文章が区によってひっそりと設置されている。
極貧の家庭で育ち、文筆で世に認められるも束の間、病魔によってわずか14ヶ月の作家期間に終止符を打たれてしまう。24歳。それも花の盛りである。
現代とはあまりにも違いすぎる時代のもろもろに、頭をもたげてしばし物思いに耽ってしまった。
そして、ここを訪れ、樋口一葉という作家がいたことを知る方が一人でも増えてほしいと、そんなことを思いながら白山の地に別れを告げた。
[訪問日:2016年3月21日]
コメント
私は白山に五十年近く住んでいますが、白山がかって花街だったという事実を今日初めて知りました。根津に遊郭があったというのも初めて知りました。いろいろ奥が深いですね。
そうでしたか。確かに今ではもうほとんど名残もありませんし、地元でもあまり知られていない事実なのかもしれませんね。
東京にはそういう昔○○だったという場所がたくさんあります。そのような場所を訪ね歩くのも面白いと思いますよ。