滋賀県のほぼ中央、俗に湖東平野と称される田園地帯に東近江市はある。
この東近江の五個荘(ごかしょう)なるところに、今なお伝統的な町並みをとどめる近江商人ゆかりの農村集落が残っている。
五個荘金堂(こんどう)地区は1998年、「農村集落」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。端的に言えば、田園地帯に突如商人屋敷と社寺が現れるやや異色な町並みである。
この地の歴史は古く、奈良時代に形成された条里制の地割が今でも残っている。江戸時代には領主となった大和郡山藩が陣屋を置き、そこを中心に三方に寺院、周りに民家という配置で集落をつくった。
そのうちのひとつが弘誓寺(ぐぜいじ)。あの那須与一の孫が開基したと言われ、その証拠にこの表門の瓦には扇の紋章が刻まれている。
この「寺前通り」には掘割が残り、悠然と泳ぐ錦鯉を見ることができる。金堂地区最大の見どころのひとつと言えよう。
近江商人屋敷を見学しよう
近江商人とは、大坂(大阪)、伊勢と並ぶ日本三大商人のひとつ。近江八幡や日野、ここ五個荘などが多数輩出した地として知られており、五個荘の近江商人はおもに江戸後期から昭和初期にかけて活躍した。
金堂地区では「外村繁邸」「中江準五郎邸」「藤井彦四郎邸」の商人屋敷3館が有料公開、旧中江富十郎邸の「金堂まちなみ保存交流館」が無料公開されている。3館共通券で1000円。
なお、かつては「外村宇兵衛邸」も一般公開されていたが、令和4(2022)年9月に宿泊施設に生まれ変わった。
外村繁邸
まず外村繁邸。別名、外村繁文学館。昭和初期を代表する作家で、第一回芥川賞の候補にも選ばれたすごい人らしい。まぁ現地で知ったんですが(笑)
外村繁邸と言っても、当の本人は東京の阿佐ヶ谷で作家をしていたのであくまで「生家」という意味合いらしい。一度は家業を継いだものの、作家への道を捨てきれずに弟に家業を丸投げして上京したというからなんともかっこいい。
近江商人は、いわゆる「質実剛健」を尊ぶ気質で、財を成しても華美な建物を建てず、目に見えるところは控え目にしたという。確かに豪邸と言う感じはなく、田舎に帰ってきたようなどこか朴訥とした気持ちになれたのは、たぶんそれが理由だったのだろうと思う。
さらに近江商人は、寺院に進んで寄進したり地域住民の助けになるようなことを率先してやっていたという。何という素晴らしい気っ風の持ち主なのか。まさに商人の鑑。
広島カープの黒田もビックリの男気である。
目をキラキラさせながらそのあたりの話をしてくれたのは、他ならぬガイドのおっちゃんである。
平日で客入りが少なく実にヒマそうにしており、入った瞬間なすすべもなくロックオンされてしまった。話は長かったけど色々勉強になったのでよしとしよう。ありがとうおっちゃん。
外村宇兵衛邸
続いて外村宇兵衛(とのむらうへえ)邸。こちらは外村繁邸の本家にあたる商家。
※先述のとおり、現在は古民家ホテル「NIPPONIA五個荘 近江商人の町」に変わっています。
入ってすぐ、洗い場として水路を屋敷内に引き入れた「川戸」があり、なんとここに鯉がいた。
うへぇ・・
生まれてきてすいませんorz
やはりここでも暇そうなおっちゃんにロックオンされてしまい、延々と色々とためになる話を聞かせていただいた。
うーん…平日に行くのもちょっと考えものだな。
二階には「近江商人とは何ぞや」という展示コーナーがあり、おっちゃんの話と合わせてかなり詳しくなった。
まず、近江商人は地元では商売をせず全国行脚が基本。五個荘を含む「湖東商人」たちは、都市部と地方を行ったり来たりしてそれぞれの商品を売る「のこぎり商法」を得意としていた。
やがて商圏を全国へ拡大しても、先述のとおり地元愛の強い近江商人は、あくまで本宅を郷里へ置いて地域社会への還元をいつも忘れなかったという。
近江商人と言えばこのてんびんスタイル。
それゆえ、五個荘は「てんびんの里」の名で呼ばれることもある。
全国各地へ、自分の足で稼ぐというスタイルは筆者自身と相通じるものがあり、何よりその思想・哲学に完全に惚れ込んでしまった。
町並みも素晴らしかったけど、近江商人のことを知れたのがこの日最大の収穫だったと言っても過言ではない。
ちなみに外村宇兵衛家は呉服商で財を成した家で、四代目宇兵衛が1918(大正7)年に株式会社化したのが、現在東洋紡の子会社である紳士服メーカー、御幸毛織株式会社。
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