前回のタイトルがあぁだったらまぁ今回はこうなるよな・・という大方の予想通り、ようやく拙ブログのタイムラインも2021年に突入。
久しぶりに神奈川に来たこともあり、あまりに不完全燃焼だったあの日の呪縛を解くべく、かなり早い段階で行くことを決めていた。
横須賀のカフェー街、「皆ヶ作」。
およそ7年ぶりの再訪となった。
人間不思議なもので、一度来たことがある場所に長い時間を経て再びやって来ると、そのとき置かれていた環境や習慣なんかが割と鮮明に蘇ってくる。
懐メロを聴いたときに当時の思い出がフラッシュバックするのに似ているかもしれない。
横浜に住んでいたことやあの日単車で横須賀まで来たこと。
まだこのブログを始めたばかりで、まだ見ぬ場所を歩いて少しずつ記事が増えていく過程がとにかく楽しかった頃。
あれから色々な場所へ趣き、最大の目標だった全都道府県公開も達成した。
見える景色もずいぶん変わったが、同じように町並みだって変わってゆく。
永久不変の景色なんて何ひとつないのかもしれない。
あのシンボリックな銅板サビサビ物件はとうに他界し、自分が知ってる景色はすでにそこにはなかった。
あの日どんな思いでこの路地を歩いたのかは微塵も思い出せないが、確かに此処に居たという事実だけは消せない過去であり消す必要のない記憶の一片だ。
「次来るときは竹の湯に浸かるか」なんて呑気なことをのたまっていた自分もまさかそれが1年のはじまりの日になるとは思いもよらなかっただろう。
ただ、この日は竹の湯より大事な宿題に手を付けるために来たのだからそんなことは別にどうだってよかった。
今ならいっちょ前に「観察眼」とか「洞察力」などと呼べるような代物はあの頃皆無だった。
この位置関係にあるこんなそそられる路地裏を見逃すのだから究極的に雑魚だったと思う。
だが、あの日ここを歩いていたとしても鑑札に気づくことはなかっただろうし、その希少性以前にどういうものかすら解らなかったのだから結果だけ見ればこれでよかったのだろう。
関東を離れる最晩年、ようやく鑑札がどういうものか理解し始めた頃は都内と北関東ばかり巡っていたので、神奈川のそれとはずっと疎遠なままだった。
これもひとつの心残りとして、喉に刺さった小骨のように長年胸の途中でつかえていた。
とにかくこの路地がほぼ原型をとどめたまま残っていてくれてよかった。
少なくとも一軒だけは確実に現役そうだったし、まだしばらくは大丈夫だろう。
余談だが、『赤線跡を歩く』に載っているのがその先で交差するこの路地だったりするが、こちらには飲み屋はもう一軒も残っていなかった。
竹の湯の南側にある「仲通り商店会」は健在だった。
変わったことと言えば、自販機がなくなって灰皿になっていたことぐらいだろうか。
当時からすでに元気がなかった商店街が息を吹き返していた、なんて摩訶不思議な話もなく、仲通り商店会は相変わらず元気がなさそうだった。
かつて料亭だった「割烹 飯田屋」の建物も、7年前とまったく変わらぬ姿でそこに立っていた。
空き家がこんなにキレイなはずがないので、やはり住人がいるのだろうか。
当時はここまでしか足を踏み入れなかった。
柏木田遊郭も見に行ったのであまり時間がなかった、これについては嘘ではないが、結局のところ当時の自分が無能すぎた、、ただこれに尽きる。
実は皆ヶ作は、「料亭エリア」「カフェーエリア」「銘酒屋街エリア」と奥へ奥へと続いていたのである。
今いるのが一番手前の料亭エリア。
割烹飯田屋と、そしてもう1軒。元料亭の遺構が残っている。
茄子の意匠に惹き付けられる。
ここは現在も住人がいるようだった。
ここまでが料亭エリア。
続いてカフェーエリアを眺めてみることにしよう。
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コメント
私も、昨年10月にここを散策しました。雨だったので写真撮影が大変でした。あのトタン建築がなくなっていたのはとても残念でしたが、「なすび!」と思わず叫んでしまいたくなる物件を見つけた時はホッとしましたね。帰りは来た道を戻らず、なんとなく駅に向かってぶらぶら歩いていたら、船越町6丁目5辺りで、すごく急で細い坂道が目に留まり、上を見たら「おお!」とのけ反ってしまう建物を発見しました。どんなものかは住所で調べてみて下さい。自分にとっては大収穫でした。
なすび(笑)
あの建物は確かに叫びたくなりますよね。
住所、調べてみました。
「おぉ!」ってなりました。
なんだろう、これは。廃病院?でもこんなところに病院があるわけないよな…。
私が歩いたのは2002年ごろだから
かなり綺麗な街になりましたね。
昔を思い出してか「年配の男性がブラブラしているのを
よく見かける」とおばあさんが話していましたね。
その頃は飲み屋も今より全然多かったのでしょうね。
今や、遺構はちょこちょこ残ってますが完全な住宅街と言った趣きでした。