玉島歴史さんぽ。町並み保存地区を歩こう

岡山県
この記事は約2分で読めます。

前回の記事でざっと触れたように、玉島地区は元々は瀬戸内海に囲まれた島々だった。
備中松山藩の新田開発によってまちが築かれ、同時に高瀬川の舟運と北前船によって物資の集散地となり、大いに繁栄することとなった。

最盛期の元禄年間には堤防の上に問屋街が形成され、40数軒の問屋と200を越える蔵が立ち並んでいたという。
その問屋街は「新町」と言い、現在では玉島町並み保存地区として景観の保存が行われている。

スポンサーリンク

新町通り

この新町通りはどこかと言うと、何てことはない。
羽黒神社から西へ伸びる、銀座商店街の一本北側の通りがそれである。

現在の住所は玉島中央町1丁目
そんなに密度は濃くないが、明らかに江戸時代のものと思われる建物がちらほらと残っている。

こちらは新町で最古の「若屋」。
江戸中期の建物で、穀物を扱う問屋だったそうだ。

なるほど、かつての国道2号線は通町商店街から溜川を渡って、新町通りへと続いていたようだ。

いわゆる古民家カフェの類にあたるのであろう「良寛庵」。

この良寛とは、江戸時代、玉島の円通寺にやって来た名僧の名前。
いたるところでその名を目にする、玉島にゆかりのある人物だ。

玉島区裁判所跡

羽黒神社に隣接する「清龍寺」が、かつてこの地方の裁判所だったそうだ。(この建物が裁判所だったわけではなさそう)

元肥料店をクラフト工房として改築した建物。

そのまま新町通りを西へテクテク。

ファサードが美しい「中国銀行 玉島支店」。

車通りを渡った先のブロックで相当年季の入った町家と出会う。

お隣は明和元(1764)年の廻船問屋。
築250年オーバー、新町通りでもかなり古株の部類に入るであろうこの建物。

あろうことか昨年解体されてしまったようです(涙)

持ち主が亡くなって、ご子息が相続放棄とかそういう分かりやすい話なのかなぁ・・
古い建物に価値を見出だせない人にとっては、所有するのは負債と同義だろうし色々難しいよね。。

いくら行政が町並み保存を事業でやったところで、莫大な修繕費を出してくれるわけじゃないからこればっかりはねぇ。
結局のところ、地域住民の意識や熱意にかかってくるよね、って気がする。

1923(大正12)年竣工の玉島信用金庫西支店。

厨子二階の町家が向かい合う光景。

玉島信用金庫の隣には巨大な蔵造り。

新町通りの端っこまで来て「もう古い建物なさそうだな~」と思ってたらこんな隠し玉が。
昔は何だったんだろう。

で、玉島の町並み保存地区は実は大きく3ヶ所に分かれていて。

この新町と、通町商店街からもほど近い「矢出町」、そして新町の川向こうにある「仲買町」。
という訳で、このまま仲買町へと参りましょう・・

(2ページ目へ続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました