今思えば、あの頃が人生のピークだった気がする。青春時代と呼ぶには余りある、4年間の学生生活を過ごした心の故郷。それがしぞーか、もとい静岡という地である。
静岡タウンに泊まるという行為がそもそも新鮮極まりなかった今回の旅。
チェックアウト後、とぼとぼと新静岡駅へ向かう。
このあたりもすっかり様変わりしてしまった。無理もない。10年以上の歳月が流れているのだ。
この静岡鉄道、通称「静鉄」も在学中には一度も乗った記憶がない。車と原付があったのでそもそも電車やバスを使う理由があまりなかった。
今になって初めて乗ることになるとは。不思議な感覚だった。
見慣れた車窓風景、耳障りのよい駅名。こみ上げるモノを抑えながら、終点の新清水に到着。
JR清水駅のやや南寄りに位置する新清水駅。
今でこそ合併して静岡市清水区だが、学生時代はまだ「清水市」だった。
ちなみにこの合併に際し、清水市の隣にある由比町が嫌がったため、その隣にある蒲原町だけ取り込み一時的に飛び地ができるという状態になった。(2008年に解消済)
もはや思い出めぐりと化している清水の訪問。これがドラマなら「立派になって故郷に戻ってきた主人公」という感動の展開になるのだろうが、なんのことはない。
「旭町」という界隈にあった赤線跡を散策するためにやってきたのである。
とても当時の友人たちに胸を張れる行動ではない。我ながら完全に終わってると思う。。
赤線跡を歩く
清水の赤線について、昭和30年の『全国女性街ガイド』には以下の紹介がある。
清水港と書くと、森の石松や法印大五郎の遊んだ気っ風のよいお女郎がいるとおもうと、大間違い。船乗り相手の、相当荒っぽいのが町のまん中の五十軒に固まっている。海から案外遠く、バスで駅から五分帳場。
ほかに、港周辺に青線があり、これは東海大学さんも御愛用になるそうである。
どうもこれが現在の旭町界隈のことであるらしい。西側の相生町も一部含んでいるとか。
旭町。交番のすぐそばに残されているのがこちらの建物。
皆さん紹介されているかなり有名な遺構。
おそらく戦後にできた特飲街だったのであろう。このタイルを見ればそう思うし、確かに周囲には現在も昭和の盛り場然とした横丁があったりもした。
円柱豆タイルは個人的に大好きなのでこれは嬉しい。
60年ほど前、ここで遊んだ荒っぽい漁師たちは今どうなっているのだろうか。
生き証人がいなくなっても、建物が歴史の語り部を担っていく。
周縁は現代の盛り場となっていた。ちなみにここ、すぐそばに清水区役所がある。店舗側からしたら天敵のような存在である。うまく共存できているのが不思議な感じすらする。
意外と昭和臭さが残る町並み。住民だった頃はこんなん見ても何も感じなかったはずなのに。
もし当時にタイムマシンがあれば、きっと未来の自分に絶望していたことであろう。
あの頃、清水に来る用と言えばもっぱらエスパルスドリームプラザと日本平や三保へのドライブだった。
大学生としては模範的なキャンパスライフだったと言っても過言ではない。
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