国内唯一の揚屋建築…島原『角屋もてなしの文化美術館』

京都府
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公許の花街、京都島原
現在の場所に移転した1641年(寛永18年)に建てられ、伝統と格式を今に伝える元揚屋の「角屋」。

この角屋。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。

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国内唯一の揚屋建築

今年の夏、『京の夏の旅』で久しぶりに「輪違屋」が一般公開されたので、4年ぶりに島原へと足を運んだ。(輪違屋は写真撮影禁止なので紹介なし)

角屋の特別公開は例年閉館となる時期(理由は後述します)で、ただし見学は一階のみというので訪問したのはその少し前。

なお、二階は写真撮影禁止なので残念ながら紹介できませんが、めちゃめちゃ素晴らしかったので是非セットで見学されることをオススメします。

というわけで、こちら一階の「松の間」。
ここでガイドさんから角屋と島原についての説明を聞いた。

まず、角屋が夏と冬に閉館になるのは、重要文化財でエアコンの設置ができないから
京都の夏は気温が体温を超え、冬は雪が降るほど寒い。とても見学に適した環境ではないので、閉館となるんだそう。

ちなみにこの「松の間」は大正末期の火災後に再建されて重文ではないので、エアコンがついている

この日は最高気温38度という酷暑だったので、二階の見学中は皆さん本当に辛そうでした…。

臥龍松の庭

さて、角屋は「現存する揚屋建築では国内唯一」という肩書きを持っている。

「揚屋」とは今で言う料亭のことで、「置屋」から芸妓(島原では太夫とも)を派遣してもらい、客に料理と遊宴を楽しんでもらうところ。

現代で言うところの宴会場みたいなもの。

そのため、大座敷に面した広い庭、庭の茶席、台所等を備えているのが特徴。

角屋は、揚屋としては明治5(1872)年まで営業し、その後はお茶屋として昭和60年まで宴会業務に使用。

昭和後期の島原の衰退については以前触れた通りなのでここでは割愛。

ところで、なぜ「揚屋」と言うのか。

これは、一階が台所および居住スペースになっていて、座敷がある二階へお客を揚げることが由来と言われている。

また、揚屋は一見さんお断りで、支払いはすべてツケのみ、現金決済は行われてなかったという。

これは今の京都の花街にも通じるものがありますね。

また、角屋には歴史上の数々の逸話が残されている。

以前書いた新選組の話もそうだし、与謝蕪村、円山応挙にまつわる話。
さらには、坂本龍馬、西郷隆盛など倒幕派の密議にも使われたという話。

二階の「青貝の間」には新選組の刀傷が残ってて、こちらも一見の価値あり。

網代の間

天井板が「網代組」の網代の間。
二階の「桧垣の間」や「扇の間」も同じく、凝りに凝った意匠がそのまま部屋の名前として使われている。
どの間も全身全霊の職人芸が垣間見える素晴らしい空間。

ここから先は台所。

刀を預ける刀箪笥。普通はここで刀を預けるんだけど、新選組は言うことを聞かずに部屋に持ち込んで酔って暴れて柱を切りつけたそうな。

いや、ただの迷惑客、っていうかカスハラじゃん(笑)

西郷隆盛が行水に使用したたらい。

戦局のさなか、建物の解体を免れることになったのが他ならぬこのたらいだということが説明文に書いてあるので是非現地でご一読いただければ。

箱階段。

台所はこんな感じ。

しかし梁の太いこと。400年近く立ってるという事実を思えばそれも納得。

外にも新選組の刀傷。

いや、どんだけ角屋に迷惑かけてんだよ・・笑

角屋でよく見られる「赤壁」。
花街で見られるものではなく、社寺の書院等で使用された高級壁。あえてそれを使うことで、並大抵の建物ではないことを示したかったから、という説が有力だとか。

地下の貯蔵庫。昔の冷蔵庫ですね。

二階をお見せできないのが本当に残念なほど、素晴らしいの一言に尽きる角屋。
もちろん一階も素晴らしいけど、行くならセットで見学することをオススメします。

[訪問日:2018年7月16日]

角屋もてなしの文化美術館

京都市下京区西新屋敷揚屋町32
JR丹波口駅から徒歩6分ほど

■開館期間
3/15~7/18、9/15~12/15
■開館時間
10:00~16:00(15:30受付終了)
■休館日
月曜日(祝日の場合翌日)、上記開館期間以外
■入館料
1階:1000円、2階:800円

二階は予約制ですが、空きがあれば当日でも入れます。


コメント

  1. 松本 忠広 より:

    角屋の創業者は、誰か、わかりますか?

    角屋七郎次郎の一族の可能性について、調べております。

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