もはや観光地 京都最大の花街『島原』はこんな所

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五条楽園散策を終え、その足でバスに乗り込み次なる目的地、『島原』へと向かった。

よく江戸の吉原と比較される京の島原は、江戸時代に六条三筋町(現在の東本願寺の北側あたり)と呼ばれた遊郭が前身で、1641年(寛永18年)に現在の場所に移されてきた。
その移転騒動が島原の乱よろしくしっちゃかめっちゃかな感じだったために島原と呼ばれるようになった、というのが現在もっとも定着している説である。

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格式の高かった島原

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その場所は、電車の場合は山陰本線で京都から一駅の丹波口が最寄りとなる。駅前にある中央卸売市場の南側にかつての廓(くるわ)がある。

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廓の北西にある大銀杏は、もともと島原住吉神社の境内にあったものである。その住吉神社は明治時代、廃社を経て再興するも以前より境内が狭くなってしまったために、この銀杏だけが取り残される格好となった。

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今、目の前には1930年(昭和5年)に祀られた弁財天があり、以前と変わらずご神木として崇められているそうである。そんな大銀杏も今では樹齢300年、島原一の巨木となっている。

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ここ島原は、一般には「島原遊郭」のほうがなじみがあるような気がするが、関係者は遊郭と呼ばれることを嫌うそうで、一応公称では「花街」と言うことになっている。
和歌や俳句、能楽、歌舞伎など文芸を研鑽する場所とする向きが強く、文化の中心としてあくまで「芸」を売っていた、という自負のようなものがあるのだと思う。
しかし、最高位であった太夫(たゆう)を頂点に、当然芸妓にもヒエラルキーがあり娼妓もいたと聞く。

ということで、幕府が許可した日本一格式の高い遊郭で文化サロンのような役割も果たした島原を、安易にそこら辺のしょぼい遊郭と一緒にしないでくれよ、とドヤ顔で言いたげなのであろうと解釈している。

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かつてのお茶屋(上の写真)を示す鑑札が残っていた。
島原はその歴史も古いが、衰退するのも早かった。明治以降は祇園や七条新地など新興の遊里に客を奪われ、1958年(昭和33年)に公娼制度が終わりを告げてからは花街として存続するも、衰退の一途をたどり1977年(昭和52年)にはお茶屋組合も解散。
その後は普通の住宅地となって今にいたっている。

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そしてこれが今はすっかり観光名所と相成ってしまった島原大門である。位置的には東の端になるので東門にあたる。

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『遊郭をみる』より引用した、明治15年頃の大門。
あまりの変わってなさっぷりにビックリして飲んでたお茶を噴出しそうになった。

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まぁそれもそのはず、現在の大門は1867年(江戸時代の最終年)に建てられたので、写真のものと同一のはずである。
ということはかれこれ150年ですか。

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見返り柳(出口柳)も健在。吉原のより立派な気がする。
ちなみに見返り柳とはご存じのとおり、遊郭で遊んだ客が、名残惜しさにだいたいこの辺りで振り返るから、というのが名前の由来。
決して結ばれることはないとわかっていても・・。儚いえにしである。

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柳のそばの石碑には島原の歴史がつらつらと書かれている。
ここにも書いてあるとおり、現在で当時の名残をとどめるものは角屋(揚屋のこと)、輪違屋(置屋のこと)、それにこの大門の3つしか残されていない。

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それ以外は確かに住宅ばかりである。
とは言えど、先のお茶屋のような古い建物もちらほら残り、格式の高さを今に伝える静かで上品な街並みが広がっている。
歩けば往時の雰囲気を肌で感じることができる。

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島原は正しくを「西新屋敷」と言う。そして、その下につく町名にちょっと特徴がある。
上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町となるが、「太夫」「揚屋」など完全に遊郭を示すそれである。
ちなみに揚屋町は吉原にも存在する。

(2ページ目へ続く)

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