ノスタルジックなベンガラの里「吹屋」を訪ねて ~紅に染まったあの街で~

岡山県
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岡山県高梁市(旧成羽町)にある吹屋地区。
引き続き町並みをウォッチして行こう。

そもそも、何故これほどまでに整然とした町並みなのか。
吹屋は昭和52(1977)年に8番目という早さで、「鉱山町」として重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選ばれている。既に40年を超えるベテランである。

しかしながら、理由はそれだけではない。

江戸時代、ベンガラで成功した吹屋の商人たち。普通ならここで、財力を競い合うかのごとく各々が立派な豪邸を建てることになるが彼らはそうはならなかった

吹屋郵便局

皆で話し合いをし、石州(今の島根県)から宮大工を招き入れて街全体に統一感を持たせたまちづくりを行ったのだ。(屋根が石州瓦なのはそれが理由)

これは江戸時代としてはありえないぐらい画期的なことで、奇跡と言っても過言ではない話である。

町並みが石州瓦とベンガラで統一されていることにはそう言う秘密があったのだ。

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ベンガラとは

さて、これまで普通に連呼してきた「ベンガラ」とはそもそも何なのか。

漢字では「弁柄」と書くが、古来より陶器や建物の色付けに使われた顔料の一種である。
耐水性や耐熱性に優れるほか、防腐・防虫作用もありあらゆるところで重宝された。

華やかさを演出するためか、遊郭や花街など「色街」の建物でもベンガラは好んで使われた。
今思えば、これまで見てきたそれらの赤は吹屋産のベンガラだったのかもしれない。

朱色のような艶やかさはなく、どこかくすんだベンガラ色。
派手さを好まず、奥ゆかしさを尊ぶ日本人に広く受け入れられたのもよくわかる気がする。

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吹屋銅山の話

鉱山のことにも少し触れておきたい。

江戸時代に活況を呈した吹屋銅山。1873(明治6)年には岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)が経営に着手したことで、さらに繁栄。明治~大正にかけて従業員1300人を超えるなど最盛期を迎えた。

ときは昭和になり、第一次大戦後の不況のあおりを受け1932(昭和7)年に銅山は閉鎖。
第二次世界大戦後に再開するも、安価なベンガラが出回るようになり1972(昭和47)年に閉山。長い長い歴史に幕を閉じた。

ベンガラ商も廃業が相次ぎ、町は衰退、建物も老朽化の一途をたどる苦境の中、有志たちが町並み保存と観光地化へと舵を切ったことで、わずか5年後に重伝建選定と言う結果を勝ち取ることができた。

歴史をなぞると、調和の取れたまちづくりを実践した先人たちの努力が根っことしてまずあって、閉山後にいち早く荒廃を阻止しようとした住人たちの頑張りがその上にある。

その証拠に、土地が歯抜けになっていたり最近の建物が混在したりと言った保存地区でもよく見かける光景がここではまったく見られない。

“奇跡の集落”の異名は決して大げさなものではないのだ。

 

松浦本家(旧日向家)

江戸末期の松浦本家。昭和25年から日向氏が美容院を約60年間営業。
営業中はTVでも何度か放映された「名物ばあちゃん」だったそうだ。

だが、今は空き家になっていた。立てかけられた美容院時代の看板が、眠るように閑かに時を刻んでいた。

(3ページ目へ続く)

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