遊郭いく人、おけいはん。京阪電車に乗って『橦木町遊郭』を見に行って来た

京都には、公許(江戸幕府公認)の遊郭が3ヶ所あった。
ひとつが島原、残りふたつが伏見にあったと中書島の項で紹介した。

中書島に行ったときは時間がなくて寄れなかったもうひとつの廓。
約5年の時を経てやって来たのが中書島から3駅の「墨染」である。

 

“おけいはん”の清楚なイメージとは裏腹に、多くの駅が京阪に集中していることは色街界では有名な話。
中書島、橋本、枚方、滝井、五条楽園、そして墨染。

すなわち関東で言うところの京急のポジションである。
イメージ戦略に騙されてはいけない。

墨染橋

名前だけ聞いても、え、どこそれ?状態な墨染。実は琵琶湖疏水が注ぐまちで、かつてはインクラインもあった(現在、同地には関電の墨染発電所だけが残っている)。

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橦木町遊郭

墨染橋の先を左手に折れ、道なりに歩くと5分もしないうちに二本の石碑が見えてくる。

― 橦木町遊郭

どうやらここが結界で間違いないようだ。

右側の柱には「橦木町廓入口」、左側の柱には「志ゆもく町廓入口」(表)、「大正七年八月吉日」(裏)と彫られている。

1918年と言うことは、ちょうど1世紀が経過したところだ。

いわゆる大門に相当するモノだと思うが、ここまで遊郭だった事実をフルオープンにするところもそうそうないので面食らった。
公許ともなると、やはり格が違うのか…。

ここは、江戸時代は「伏見夷町(えびすちょう)」という遊里だった。

歴史はことさら古く、秀吉が伏見城を築いた1596年に成立。その後、1604年に現在の橦木町に移された。
「撞木」とは鐘を叩くときの丁字型の棒のことで、木槌をイメージしてもらえばおわかりいただけるかと思う。

街路が丁字型をしているので橦木町になったそうだ。

 

橦木町には、赤穂浪士で有名なあの大石内蔵助が遊興したという歴史があり、敵を欺くために遊郭で密議を行ったと言う。

それゆえ、「橦木町での密謀は成就する」と真似る人が少なくなかったそうだ。

売春防止法で遊郭は廃止され、1990年代まではお茶屋が数軒営業していたそうだが今ではもう一軒も残っていない。
石碑以外は完全にただの住宅街となっている。

入口の石柱から1分ほど歩くと、別の石碑が建っていることに気がつく。

こちらは、同じく1918年に建てられた「橦木町廓之碑」。

先ほど紹介した秀吉と伏見城にちなむここの成立にまつわることや、大石内蔵助に関するくだりが記載されている。

石碑が建つ四ツ辻を通り過ぎ、振り返る。
100mほどの短い通りだった。

突き当たりには地蔵尊が祀られている。
遊郭との関連はともかく、遊郭があった時代から鎮座しているのだろう。

無意識に手を合わせ、踵を返した。

橦木町は、享保年間以降、中書島が繁栄したことで急速に衰退していったが、忠臣蔵ゆかりの地ということもあり細々と続いていったそうだ。

ちなみに『全国遊廓案内』には二十軒約七十人の記述がある。

 

橦木町廓之碑から南へ歩くと、国道24号線にぶつかる。
かつてはここに「撞木橋」が架かり、インクラインはその下を通っていたそうだ。

今では橋の代わりに歩道橋が架かっている国道24号線。
ちょうど写真奥のほうに伏見インクラインがあった。

傍らに「いまそう会館」なる葬儀場がある。

実はここには2005年まで、DX伏見というストリップ劇場があった。
こんなところに・・と言う、典型的な色街の名残と言えよう。

なお、DX系の劇場は昨年歌舞伎町が閉館になってしまい、京都の東寺のみが辛うじて現存している。
正直存続が厳しそうな感がありありだけど、なるべく頑張ってほしい。。

 

そうだ、もうひとつあったの忘れてた。
大石内蔵助が遊興したと言う「よろずや」の跡にもそれを示す石碑がある。漢字で書くと萬屋。「笹屋」とも言うらしい。

石碑は印刷会社の敷地の隅っこのほうにぽつんと建っている。
ちょっとシュールな光景。。

宅地化され、石碑のみが名残となっている公許の廓、橦木町。
忠臣蔵ファンと遊里好きにしか刺さらないであろうとんでもなくマニアックな場所だった。

 

結構暑い日でのどが渇いたので、駅前のデイリーヤマザキで珈琲を飲んでから帰路についた。

[訪問日:2019年4月21日]


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