先に言っておこう。
久しぶりに長崎へ来た目的は、丸山遊郭(丸山花街)を歩くことであった。
その前に、アップを兼ねて思案橋界隈の路地裏を彷徨った。いや、口が滑ってもおまけなんて言えないような素晴らしい景色の数々をまずは紹介させてほしい。
路面電車の思案橋電停。
目の前にある「思案橋横丁」のアーチをまっすぐ丸山方面へ進むと、変則的な四ツ辻にぶつかる。
ここに『柳小路通り』の入口がぽっかりと口を開けている。
“見返り柳”を模した、申し訳程度の柳の木を横目に路地へと吸い込まれて行く。
グラデーションのように奥部へと濃くなる怪しさに怖気づき、思わず“振り返りたく”なる人もいるかもしれない。
青空の下に顕になった異空間が眩しい。
願わくば夜に訪れたかった。己の立てた旅程を恨めしく思った。
表と裏。
2つの顔を持つ街は、時間帯によって玉虫色に変化する。
半開きになって朽ちかけた扉の向こうには、色を失った世界が広がっていた。
まるで生き物のように複雑に絡まり合った配線が、この街のややこしさを物語っているようだった。
「情のもつれ」でここを去った者もいたことだろう。
なおも奥へ進むと、魔窟めいた空間と対峙することになった。
あまり長いこといると、ここに巣食う魔物に脳髄をやられてしまいそうだ。
それほどに強烈だった。
物音ひとつない。自分の足音だけが壁に跳ね返って弱い音を奏でていた。
深海のように、どこまでも静かだった。
長崎市には「戦災復興地区」と言うエリアがある。
原爆で吹き飛んだ街を再起するために適用された、国の都市計画である。
今歩いてるいるあたりは、爆心地から離れていたこともあってそのエリアには入っていない。
そのため、いわゆる戦後どさくさ系と呼ばれるごちゃっとした街並みが残っているのだ。
地形的な制約から、道が狭く一方通行が多いのは長崎市の得意とするところである。
ただ、市街地に近づけば近づくほど、ここのように“怪しさ”を纏った界隈は姿を消していく。
そういう意味で、都市計画の観点からも多分に貴重なエリアなのだ。
長崎を訪れた際は、是非とも歩いてほしい場所のひとつである。
相変わらず人がいない。
自分だけが表の世界から切り離されてしまったかのような感覚だった。
片方が現実世界への戻り道だとしたら、もう片方は二度と這い出ることのできない異界へと沈んで行く道のような気がした。
入り組んだ路地は、絶えず感覚を頼りに進む先を選び取らなければいけない。
それは、岐路や転機を前に道を選んでゆく人生にどこか相通じるものがあると思う。
人生にやり直しがきかないように、まち歩きも本来は似たようなものだと思う。
その瞬間、どちらの道を選んだかで出会う人や見える景色が微妙に変化したりする。
結果的にすべての路地を歩いたからと言っても、もたらされた結果がまったく同じとは限らないのだ。
その醍醐味に気づいてから、まち歩きがさらに面白くなった。
路地はいいぞ。
声を大にして言いたい。
みんな路地を歩こう。
2017年、床が崩れる事故が起きた「銅座市場」。
戦後、銅座川を暗渠化して建てた激渋市場は解体工事が進み、見るも無残な状態だった。
[訪問日:2019年10月12日]
コメント