下関から高速に乗ってびゅ~んと岩国まで。一気に山口の端から端まで移動してきた。
岩国に来たのは13年ぶり二度目のことだ。
そう言えば前回は着いたのが夕方で、この橋を見ただけで他に何もできなかったな・・としみじみ懐かしみながら錦帯橋へやって来ると
なん…だと…!?
あろうことか運悪く工事の最中に来てしまい、橋が・・何かにすっぽりと覆われていた。
いや、こんな激レアな姿を拝めたのだからある意味運がよかったのかもしれない。
そんなことを思いながら橋を渡り、山上に見える岩国城へ・・
行くようなド定番の観光ルートに筆者が興味ないことは皆さんすでにおわかりだろうと思う。
そんなのはフォー○ラベルやトリップ○ドバイザーに任せておけばいい話である。
この日の目的は錦帯橋の手前こと南東側に広がる、観光ガイドに見向きもされない町並みを観察することである。
錦川東岸に広がる城下町
錦帯橋の西北、つまり山の手は上級藩士の居住地だったところだ。
吉香公園として整備され、界隈には「香川家長屋門」や「吉川資料館」などが残っている。
ロープウェイに乗れば山上の岩国城まで行くこともできる。
観光客が通常行くA面の岩国はこっちのほう。
対して、橋の南東側は下級武士や町人の居住地だったエリア。
うだつの上がらない人間としては、上級武士よりこちらのほうがはるかに親近感を覚える。
錦帯橋からまっすぐ伸びる通りが旧名「大明小路」。
かつて中級武士の屋敷が並んでいた通りで、今でも立派な門がいくつか残っている。(鑑札見つけた…)
錦帯橋そばの河原が駐車場になっていたのでそこに駐車したが、かなりのクルマが停まっていた。
そして錦帯橋の上も観光客でごった返していた。
ところが・・案の定と言うか、コチラ側は見ての通りである。
みんな分かってないなぁw
明治2年に開業した現役の料亭「半月庵」。
元々は武家屋敷の茶室だったそうな。
ここでも鑑札発見。
字が消えちゃってて判読できない。
57年は西暦と昭和どっちなんだろう・・たぶん前者だろうけどどっちもありえそうだよな。
大明小路が最も東側の通りで、西側に5本の筋がある。そこが町人地。
各々に町名がついているが、「材木町」「魚町」「塩町」などとなっているので職能別に分かれていたのだろう。
城下町あるある、である。
町並みは当時の町割りのまま碁盤の目状になっているので歩きやすい。
ただ、すべての路地を歩こうと思ったらジグザクに進まなければいけないので大変である。
あてどなく歩く。古い町家が点在している。
切妻造の平入、そして中二階の江戸時代スタイルのものがよく目につく。
新地
旧登富町(豆腐町)に遊郭があった。
現住所で言うと岩国2丁目15あたりである。
近くまで来るも、色街があったなんてまるで思えないような真新しい住宅ばかり。
ハイターで漂白されたかのように真っ白である。
ホントにここなんだろうか・・
妓楼がことごとく取り壊された結果こうなったって言うありがちなやつじゃ・・
おろおろしながら歩いていたら、ようやく目当ての建物が出てきた。
もう少し先だったようだ。
なんだ・・この意味ありげな椅子は。
まるでツッコんでくれと言わんばかりの絶妙なポジションに置かれた椅子は何を示唆するのだろうか。
木札には「歴史町名 新地」の文字が刻まれていた。
やはりここで間違いないようだ。
以前は奥のほう、クルマが停まっているあたりに「登富町商店街」と書かれた中途半端なアーチが立っていたそうだ。つまりここは商店街の一角。
色街があったど真ん中あたりのはずなのだが、何とも不思議な感じだった。
ここに遊郭ができたのは大正末期頃で、昭和初期の時点で9軒50人ほど。
見ての通りであるが小さな規模だったようだ。
この四ツ辻あたりまでが範囲だったのだろうと思う。
確かに、やや大柄の木造家屋が連続で立っているあたり、遊里だった雰囲気は少しだけだが感じられた。
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