主要な遺跡と建物を見てきたので、続いて町並みを見てまいりましょう。
町割りなんかに目を向けるとそこには見どころがぎゅっと詰まっている。
碁盤目状の港町
今に残る高砂のまちの原型は、江戸初期に姫路藩が整備したものだ。
元々城下町だった(近くに一国一城令で棄却された「高砂城」があった)こともあってか、まちはきれいな碁盤の目状をしている。
まちの名前も「船頭町」「魚町」「材木町」など、職業ごとに集住していた名残が見て取れる。
港町というか完全に城下町のそれである。
高瀬舟の船溜まりがあった「高瀬町」。
まちの案内図を見ると、かつては四方を運河に囲まれた島だったことがわかる。
本当に道がきれいにまっすぐ伸びている。
そして、こんな感じで古そうな町家が点在していて散策のしがいがある。
しかしながら、やはりそれなりに空き家も多いそうだ。
高砂に限った話ではないが、今や立派な社会問題であるとつくづく考えさせられる。
高瀬町は埋められてなくなった北堀川に面していたまちだが、この北堀川と現在の堀川が出会う場所に行ってみてほしい。
まずは明治後期に建てられた「旧花井家住宅」。厨子二階の木造住宅で、昭和初期頃まで肥料問屋を営んでいたそうだ。
登録有形文化財にも登録されており、現在は地元のまちづくり協議会が交流拠点として使用している。
向かいは蔵として使われていた建物だろう。
その向かいにも蔵が立つ。
こちらは文政6(1823)年に建てられた米蔵で、「松宗蔵」と言うそうだ。
同じく登録有形文化財。
堀川は現在もそのまま残っている。
ここを、物資を乗せた多くの船が行き交ったのである。
ここらで写真を撮っていたら、これまた古そうな町家にお住まいのおばあさんに声をかけられ、少しばかり昔の話を伺うことができた。
まちがまだ港町の繁栄を憶えていた時代からここで暮らしていたであろう女性のリアルな話は、今日初めてここを訪れた旅人を満足させるには十分すぎるほど魅力的だった。
かつてこの場所を北堀川が流れていた動かしがたい事実は、この「稲荷橋」を見れば実感することができよう。
この橋を渡り、北堀川の北側に行くともう一軒、通りに面して古い町家が立っている。
それがこちら、明治後期の町家「大崎家住宅」。
材木問屋を営んでいた家で、袖うだつと格子が特徴的。
堀川遺構の南側がまったく見れないままタイムアップ。
と言うのも、元々高砂では銀座商店街だけ見る予定で、港町の歴史は現地で知ったというオチ…。
ある程度見れたので満足はしましたけどね。
そんなわけで、高砂の見どころは商店街だけではありません。昔の町並み、オススメですよ。
[訪問日:2020年2月8日]
コメント