ナメラ商店街の先で旧街道は一度今の県道に出る。
ちょうど観光協会があったのでまち歩きのパンフレットをゲット。
観光協会の目と鼻の先にある、登録有形文化財の「旧玉置家住宅」。
文政9(1826)年に建てられた母屋2棟と土蔵が残っており、中は見学可能。
商店街と三木城跡を見てるうちに閉館時間になってしまい、実は見学できなかったというオチw
旧玉置家の斜向いに立つ「旧仲島家美術館」。
と書かれてるけどどうやら居酒屋らしい。。?
ひめぢ道へ
その先、農協会館前に道標が立っておりそこで「ひめぢ道」と「あかし道」に分かれる。
2秒ぐらい迷った結果、直感を信じてひめぢ道へと進んだ。
ひめぢ道(ひめじ道)はもちろん姫路へと向かう街道。
三木合戦の後に城主となった秀吉は、焼き払われた城下町を再興。
そして、中国地方の毛利攻めの拠点として姫路城を改修した。城が完成すると、3万もの大軍を三木から姫路に移動させるために新たに道を整備。
それがこのひめぢ道で、江戸時代にはやはり参勤交代の大名も通った由緒ある街道である。
このひめぢ道沿いにはことさら古い町家が多く見られ、もっとも見応えのあるエリアだった。
江戸時代からの金物問屋「黒田清右衛門商店」。
屋根の上、ユニークな鋸型の看板が特徴の町家は屋根が三段になっている。これまた珍しい。
登録有形文化財でもあり、通りで最も存在感を放っていた。
三木は金物のまちとして名高いが、それはなぜか。
答えはやはり秀吉である。
三木合戦後の城下町復興で、三木には各地から大工が集まった。
となると、彼らに必要な道具をつくる鍛冶職人の需要も当然増え、これがのちの発展への基礎となった。
町の復興が落ち着くと大工たちは出稼ぎをするようになり、行く先々で大工道具が評判となった。
工具が各地で飛ぶように売れるが、出稼ぎの大工だけでは販売が追いつかず、原料の仕入れと販売を請け負う仲介人が登場した。
やがて問屋へと発展し、三木の金物は大坂や江戸へ、そして全国へと広がっていった。
三木は今も大工道具や金物製品を製造販売する全国屈指の産地なのだそうだが、お恥ずかしながらまったく存じ上げませんでした。。
なおもひめぢ道を進むと、かつて「銭屋横丁」の名で営業していたソシアルビル風味の建物。
今は「銭屋酒坊」と言うようだ。
中はこんな感じ。
数は段々と減っていくが、ところどころ目をみはるような町家が残っている。
ほとんどが、というか全部?と言ってもいいかもしれないほど平入りばかり。
何故なんでしょうね。
このひめぢ道がパンフに載ってる部分だけでも結構長かった。
これ、湯の山街道も通しで歩いてたら大変なことになってた気がする…w
かつては虫籠窓だったんでしょうなぁ。
ここらで一端区切ります。
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コメント
コロナが収束しないと街歩きも厳しいですな。
いつになるやらさっぱりですね・・