今となっては懐かしい思い出となってしまった感が否めないが、関西に移ってすぐぐらいに尼崎のレトロ市場を歩いた。
いつか続編を…と思いながら、気づけば4年もの歳月が流れてしまっていた。
元来の性分で、近場はつい後回しにしてしまうのである。(大阪の記事が一向に増えない理由がこれ)
不要不急の外出が“悪”とされた昨年、一回目の緊急事態宣言が明けてぼちぼち近場なら出かけてもいいだろう…
となってきた7月末頃、アマ(尼崎)のレトロ商店街散策にくり出した。久しぶりのまち歩きだった。
商店街を歩く人にはもはや説明不要なほど有名な尼崎のアーケード群は、阪神尼崎駅から出屋敷にかけての一帯にまたがっている。
手始めに駅前から始まる中央商店街から歩き出した。
見た目ずいぶんキレイなアーケードだが、侮ってはいけない。
中央商店街の設立は昭和21年である。
戦後、焼け野原となっていた同地に復興の旗印として建設されたのだ。
尼崎は戦前からの工業都市で工場が集積していたため、空襲では四回に渡って爆撃されている。
ここを歩く上ではこれがポイントとなる。まずこの事実を押さえておこう。
このあと、近くの定食屋に入って昭和42年生まれというご主人から昭和50年代頃の話を色々と聞いたが、当時は子供の手を離せないぐらい人が多かったらしい。
なんせ、他にお店がないから市民はみんなここに買い物に来てたんだとか。
当時はあらゆるお店があって、肉屋、米屋、魚屋に玉子屋。笠屋とかスリッパ屋なんてのもあったそうだ。
「卵にライトを当てて有精卵かどうか判断してたな」
「基本はバラ売りでな。ビニール袋はなくて包装紙は全部新聞紙だったよ」
今もそれなりに賑わってはいるが、当時を知る人からすればだいぶ寂しく映るようだ。
「今はもうダメだよなぁ」
と何度も寂しそうにつぶやいていたのが今でも印象に残っている。
中央商店街はやがて「三和本通」とクロスし、その先、「三和西町」と名前を変えてアーケードが終わる。
駅前からおよそ800mという長さである。
商店街の終端には大衆演劇場「三和劇場」がある。
※2021年より「千成座」としてリニューアルオープンしたそうです
なお、アーケードを抜けた先が元かんなみ新地で、遊びに行ったことがある方は裏手に大きな駐車場があることはご存知だろう。(この写真を撮っている位置の右斜め後ろあたり)
先の定食屋のおっちゃん曰く、かつてそこにダイエーがあったそうで、出屋敷駅前のリベル(1階に関西スーパーが入っているマンション)とダイエーのせいで商店街がダメになったとのことだ。
今やダイエーもなくなり、リベルも空きテナントばかり。なんとも皮肉な結末である。
さて、東西は歩き切ったのでお次は南北の三和本通へ。
ここには知る人ぞ知る名店「大手橋食堂」がある。
このときは時間が遅くて閉まっていたので、後日、日を改めて訪問した。
ナイスな市場
中央商店街の一本北側の路地へ歩を進めると、「ナイス市場」と書かれた別の市場が目の前に現れた。
めっちゃ気になるな。とりあえず入ってみよう。
ここもできたのは戦後間もない頃で、当時の日本人は、進駐軍の影響で日常会話でも英語を使うようになっていたと。
よく使われたもののひとつが「ナイス!」で、“素敵な市場”ということで命名されたそうだ。
ちなみに、入口左手の「たぐち果物店」はナイス市場ができた当時から変わっていないまさに生き字引的な老舗である。
もしかしたら以前はもうちょっと先まであったのかな、とか想像してみる。
今やほぼシャッターとなってしまっているのは何とも寂しい限り。
戦後闇市の話
このあたりでそろそろこの話をしなければならない。
ここのレトロ市場は、もっぱら「三和市場」と呼ばれる(ことが多い)。
ビジュアル的に最も強烈なインパクトを与えるのが三和市場であることに他ならないからであるが、歴史をふまえてこの市場の紹介をしたい。
三和本通を端まで南下すると、3つの市場が並んで口を開ける全国的にも稀有な光景を見ることができる。
右手の三和市場は戦前にできた公設市場で、このあたりの市場の中で最も古い。
対して三和本通とサンロード(新三和商店街)は、戦後すぐにできた闇市がそのルーツとなっている。
『図説 尼崎の歴史』という本に、当時の闇市の様子を著したイラストが描かれている。
当時、サンロードを入ってすぐのところからドブ川が流れており、その上に板を渡して店を開いた人が多数いたそうだ。横須賀で有名な、いわゆる“どぶ板通り”である。
どぶ板の話は定食屋のおっさん(以後「おっさん」)も証言していた。
そのときは場所がわからなかったが、後日図書館で調べてサンロードだったことが判明した。
という訳で、次はサンロードを歩いてみよう。
ここはかなり気合いの入ったシャッター街だった。
おっさん曰く、20年ぐらい前からこんな感じじゃないかということだった。
ここができた当時は、出屋敷駅に近く、北側には国道電車が通り、また、周辺には工場地帯で働く人たちの住宅もあって、市内はもとより近隣市からも買い物客が押し寄せるほど繁盛したそうだ。
だいたい昭和20~40年代頃の話である。
ここを流れていたドブ川は用水路で、かつて付近が農村地帯だった名残らしい。
闇市になる前は水はけの悪い、葦が生えるほどの湿地帯だったと言うから驚きである。
戦後、闇市から始まり急成長した商店街。
昭和28年には出屋敷商店街に市内初の鉄骨シルバーアーケードが完成し、続けざまに三和市場、新三和商店街にもアーケードが完成。
一方、工事と区画整理を進め、どぶ板上の商人たちに土地が払い下げられ、ようやくここに来て近代的な商店街としてスタートする基盤が整備された。
そんなわけで、今のアーケードの原型が出来たのはおおむね昭和30年頃のようだ。
さすがに一度ぐらいは改修しているだろうが、歴史の長さは折り紙付きと言える。
この先が南側の入口になる。
件のドブ川は、カーブが始まるあたりから左手に向かって流れていた。
今はもう、まったくと言っていいほど名残はない。
(2ページ目へ続く)
コメント