仙台藩伊達氏の要害。重伝建『金ケ崎城内諏訪小路』

岩手県
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江戸時代の一国一城令により、仙台に居を構えた伊達氏は藩内の要所に21の「要害」を築き、家臣に治めさせた。
その中で最北に位置し、(仙台藩と)盛岡藩との境界を担ったのが岩手県金ケ崎町にあった金ケ崎要害である。

旧金ケ崎城と武家町から成る一帯は、2001年に「金ケ崎町城内諏訪小路」の名で国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。

秋田遠征最終日、ちょっと足を伸ばしてこの金ケ崎を訪れた。
無論、この“越境ウルトラ弾丸ツアー”のせいでバッタバタの1日になってしまったことは言うまでもない。

白糸まちなみ交流館

横手から約80km。
クルマ移動だから可能だったものの、我ながらまぁまぁドMな行程を組んだと思う。

けど、そうでもしなければ岩手なんて次いつ来れるか分からない。
ここまで来るのが高速をかっ飛ばして1時間ちょっと。滞在時間も同じぐらい。非効率の極みであるが仕方ない。

見学すらできなかった白糸まちなみ交流館にクルマを停め、観光マップをゲット。
すぐさま散策を開始した。

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金ケ崎町城内諏訪小路

この地が要害に選ばれたのは元々戦国時代の山城「金ケ崎城」があったからで、北上川と胆沢川の合流地点の北側、台地上にあったことも防衛の面では利点となったのだろう。

現在残る町並みの礎は、江戸時代初期の1644年に移封された大町定頼によって整備されたと言われている。

旧坂本家侍住宅

武家町は、城を囲むように巡らせた七つの小路「諏訪小路」「裏小路」「表小路」「達小路」「船戸小路」「六軒丁」「片平丁」に沿って屋敷が配置され、小路自体も鉤型や弓形を組み合わせて見通しを悪くする工夫が凝らされていた。

諏訪小路

屋敷の特徴としては「エグネ」と呼ばれる屋敷林とサワラヒバの生垣で囲まれ、敷地内には茅葺き寄棟造の主屋《居住空間》と畑や果樹を栽培した《生産空間》を併せ持っており、いわゆる半士半農の生活を送っていた。

屋敷林は風や雪、暑さから主屋を守る役割を果たし、やがて生長した木は家の建て替え時に利用されたそうだ。
素晴らしき循環型ライフ…。まさにSDGsである。

細目家庭園

金ケ崎では5つの侍住宅が公開されており、そのうち3つが茅葺屋根。復原整備も行われているので見た目はよく整っている。

マップがあれば大丈夫だと思うが、もしガイドの案内が必要であればまちなみ交流館に行って頼もう。(木曜日は休館日なので注意)

まちなみ交流館の北側、「裏小路」「諏訪小路」と歩いてきたので川のほうへ行ってみる。

金ケ崎神社

1741(寛保元)年に建てられた金ケ崎神社。昔は「諏訪社」と呼ばれていたそうだ。

古くは「諏訪八景」と称された、境内から北上川方面の眺めが抜群。

隣接する諏訪公園を歩いていくと、何もない広場に着いた。

ここが金ケ崎城の二の丸跡。
かつては二の丸の他に「蔵館」「本丸」「東館」「観音館」「大庭」と全部で6つの郭があったが、北上川の浸食作用でまともに残ってるのがここだけだと言う。

(2ページ目へ続く)

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