岡山の南東部に和気町(わけちょう)という町がある。
古い町並みや建物が好きな人はすぐにピンとくるであろう和気には、水運で栄えた歴史と往時を偲ばせる風景が僅かながら残っている。
現在、まちの中心部と言えば鉄道の駅周辺になるが、かつての中心はそこから北西に1~2km離れた吉井川の左岸にあった。
和気郵便局のあたりから散策を開始した。
登録有形文化財にもなっている「永井家住宅主屋(旧永井歯科医院)」。
大正5(1916)年の建築、当時、この地方で洋風建築は珍しかったそうだ。
少しだけ駅方面に戻ってみたが、古い建物はあまりなさそうだったのですぐに引き返した。
郵便局の先を右に折れ、吉井川と並行する道に出る。
この通りが旧市街地となり、現市街地と区別して本和気と呼ばれている。
吉井川は高瀬舟の水運で栄えた河川で、このあたりには川湊があった。
また、当時の山陽道(古代山陽道)は和気を通るルートだったため、「和気の渡し」と呼ばれる渡船がこの地にあった。
物資や旅客の集散地として繁栄したのが現在の本和気だったというワケだ。(洒落ではない)
という背景を知ってから町並みを眺めると、なるほど江戸時代あたりからありそうな建物が確かに散見される。
海や川でモノを運んだ江戸時代から、鉄道が敷設されて汽車で運ぶようになった明治時代。
1891(明治24)年に山陽鉄道の和気駅が開業し、1923(大正12)年には片上鉄道の和気駅も開業。
片上鉄道とは、まさに吉井川の高瀬舟に代わる輸送手段として爆誕した鉄道である。
これにより、まちの中心が鉄道のほうに移り、本和気のほうは衰退していった。
中心が移ったことで目立った開発もされず、古い町並みが残ったのであろう。
ただ、歩いた感じだと古い町家も徐々に数を減らしつつあるような状況ではあった。
まぁ、和気に来る人でここまで歴史に関心を持つ人はあまりいないだろう。
多くの人はある建物を目当てにやってくる。
建物が見れたら満足して帰路につく。
そういう建物が和気にはある。
・・あれ?
下調べでは確かこのあたりだったはずだが・・
胸騒ぎが止まらない。。
これはもう胸さわぎの After Schoolである。
あふれるのは好奇心ではなく焦燥感だ。
そして、、悪い予感はやはり的中した。
ちょうどすぐそばの家の前で作業をしていたおっちゃんがいたので訊ねてみたら、わずか2ヶ月ほど前、10月頃に解体されたことがわかった。
その建物こそが旧和気郵便局。
在りし日の姿をストリートビューでご覧頂こう。
この近代建築はいわゆる“和洋折衷様式”だったが、棟続きだった町家建築までごっそり逝ってしまったようだ。
なんだろう・・この・・・・虚無感は。。。
この建物を見にわざわざ和気まで来たのに、、なんなんこの仕打ちはorz
なお、このとき話しかけたおっちゃんが死ぬほど話好きな人で、頼んでもないのに和気の歴史やら何やら語り出して最終的には周辺の町並みの案内までしてくれた。本当に感謝である。
旅先でのこういう一期一会は実にいいものである。
で、まったくそうは見えないが、おっちゃん曰く旧和気郵便局の左側にあるこれが二代目郵便局だそうだ。
※現在の郵便局はつまり三代目
以降は、おっちゃんのガイドを聞きながら撮り歩いた写真となる。
基本的に、「この建物は古いよ」と言われたものをカメラに収めていった。
おっちゃんからは、和気が舟運で栄えたことや「ここには以前こんな建物があったんだよ」という話、まさかの「女郎屋まであった」なんて話まで飛び出した。
この日もっともビビったのがこれである。
まぁ、昔日の隆盛を思えばそらあっただろうね、という話だが残念なことに正確な場所やどういう感じだったかということまでは聞けなかった。
うろ覚えだが、これが確か元料亭だった気がする。
あれ、旅館だったかな・・?w
往復1kmちょっとぐらいは歩いただろうか。
思った以上に古い建物が残っていた。
旧郵便局は見れなかったが、色々話は聞けたし収穫の多い散策だった。
通りからはぱっと見えないこの建物も相当古いというお話だった。
土壁が露出したこの建物もかなり年季が入っている。
最後に教えてもらったのが、山肌に「和」と書かれた“和文字”。
京都の大文字焼き、すなわち送り火と同じで毎年8月に『和文字焼きまつり』が開催されるんだそうで。
たぶん、『旧和気郵便局』が現存してたら自分の性格上それだけ写真に撮って帰っていただろうと思う。
そしたらおっちゃんに話しかけることも、こうして和気の散策が記事になることもなかったワケで。(だから洒落ではない)
掘り下げてみると、どんなまちにも知らない歴史があっていざ知ってみると意外な事実が見えてきたりする。
このあたりがまち歩きの醍醐味だよなぁと、、そんなことを思った和気だった。
[訪問日:2020年12月12日]
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