比類なきデュアル陣屋町。岡山市庭瀬・撫川の町並みを歩く

岡山県
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掲題の通りだが、庭瀬には陣屋町がふたつ存在した。
ひとつは前頁で書いた庭瀬陣屋。

もうひとつが、現在撫川城址がある場所である。

先ほど渡った、常夜灯があった水路が庭瀬と撫川(なつかわ)の境目だそうだ。
という訳で、後編は撫川の町並みを歩く。

観音院

庭瀬城跡と撫川城址は直線距離でどうだろう。2~300mと言ったところだろうか。
なぜこんな至近距離にふたつの城が!?

そんなややこしい歴史を紐解いてみよう。

 

戸川達安が庭瀬陣屋を構えたのは先述のとおりだが、その頃は撫川城址のあたりも庭瀬城の一部だった。
戸川家は4代目の安風を最後に跡継ぎがいなくなるが、もともと撫川に知行所を構えていた達冨(安風の弟)が延宝7(1679)年、旗本として5千石を与えられて家名の存続を許されたことで現在の撫川城址の場所に居所(陣屋)を置いた。

この出来事により庭瀬城は二分され、「庭瀬城」「撫川城」と言う別々の城(陣屋)として存続することになったのである。

歴史って面白いね。

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撫川を歩く

さて、そんなわけで撫川城址のエリアを歩いて行こう。

街道筋には道標もいくつか残っている。
写真のものには「吉備津道」「金毘羅道」と記されている。

金毘羅参りも当時庶民の間ではポピュラーだったのであろうことが伺える。

道標が立っているあたりには、江戸後期に油の製造で財を成した「吉岡屋」という商家があったそうだ。

旧吉岡屋と庭瀬往来を挟んで、ショボい水路と住吉神社。
江戸時代にはもっと水路の幅が広く、吉岡屋はここに独自の船着き場を設けて物資の積み込みを行っていたそうだ。

なおも庭瀬往来を進む。「園部醫院」と書かれたこちらは元病院のようだ。

横から。奥行き長っ!

その先で足守川に至る。
モデルコースは川向こうまで足を伸ばしていたが、ここらで引き返すことにした。

土手から撫川の古い町並みを眺める。

最後に撫川城址を見に行く。

まるで浮島のような撫川城址は、濠に囲まれた東西85m、南北55mの小島で石垣や土塁が現存している。

こちらの門は撫川陣屋の総門を明治時代に移築したものだそうだ。

幅15mの濠と石垣。

「撫川うちわ」という郷土品がある。
江戸時代に武士の内職として作られ始めたものだと言う。

その撫川うちわの製作技術を保存するために、昭和60年に岡山市の「選定保存技術」に認定されたそうだ。いわゆる無形文化財みたいなものだろう。

水路が張り巡らされた現代の水郷、庭瀬&撫川の町並み。
昔から変わらずにある水路は、新旧入り混じったこんな風景を創出することに一役買っている。

是非、江戸時代に思いを馳せながら歩いてみてはいかがだろう。

[訪問日:2021年5月1日]


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