佐渡・水金遊郭跡を歩く~栄枯盛衰の島で見たもの~

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

行ってみたいと思い続けながらも、そのエネルギーの弱さからなかなか足が向かない場所がある。筆者の場合、その内のひとつが「佐渡島」であった。

15

全国を旅する者には、同じ地方ばかり連続で巡る人はあまりいない。行きたい場所を順繰りに訪れ、そのリストをひとつずつ減らしていく。
そんな具合で、ようやく巡ってきた佐渡島への訪問。秋晴れの新潟港、愛車とともに佐渡汽船「ときわ丸」に乗り込んだ。

二時間半の船旅を経て佐渡に上陸。早速その足で佐渡金山へと向かう道すがら、かつてかの地にあった遊里、『水金遊郭』の跡地へ立ち寄った。

14

『遊郭をみる』より拝借。
水金遊郭の歴史は古く、江戸時代、1717年(享保2年)に誕生。「中央を流れる水金川をはさんで南北に区分され、両側に11軒の妓楼が並んでいた」とある。

05

同じ場所から撮影。結論から言うと現在ではその名残はほとんど失われてしまっていたが、面影を訪ねて少しばかり付近を歩いてみようと思う。

スポンサーリンク
広告336×280

遊女の供養塔

09

程なくして、石碑と看板が目につく。どれ、何が書いてあるのかいっちょ見てみるか。

01

それは、ここに遊郭があったことを示す看板と、遊女の供養塔に他ならなかった。

昔、この上流で水銀流し(アマルガム精錬)が行われた。水金の地名はそれに由来する。享保2年から十一軒の遊女屋がここにでき、戦後まで数軒残っていた。

02

遊郭がそこにあったという事実は、土地の人にとっては往々にして隠したい、忌むべき対象であったりするものだが、ご丁寧に説明まで書いてあるとは。何というオープンさか
流石にちょっと面食らっちゃいました。

03

水金遊郭は、山先町にあった遊女屋が移転して出来たそうで、軒数は移転時からずっと11軒だったが、遊女の数は40人⇒55人と増え、幕末期には44人だったとある。
年齢は16歳から26歳、ほとんどが島内の娘だったという。

04

さらにご丁寧に、昭和10年代の地図まで掲載してあった。こんな貴重な資料を簡単に公開しちゃうところに佐渡の人々のおおらかさを感じる。
しかしこれで散策が捗るってもんだ。
因みに供養塔の裏側には「平成二十一年五月建立」と書かれていた。まだ新しいみたい。

06

それにしても、こんな佐渡くんだりまで遊郭跡を見学しに来るなんて、つくづく酔狂なことをしているもんだと、このときほど強く思ったこともない。
観光で佐渡に行くことすら巷では結構珍しいのだからまぁそれも当然ではあるが。
ここを、明確な目的があって見に来る人って、年間何人くらいいるんだろう。自然とそんな無粋な考えが浮かんでくる。

10

先の地図に「玉屋」と書かれた場所は、近年まで同じ名前で旅館を営んでいたようであるが・・

08

嗚呼・・栄枯盛衰とはこのことか。
合掌。
建物そのものが、空き家になっているような雰囲気を醸し出していたので、もしかしたら主を失ったのかもしれない。

07

本当に昔ここに遊郭があったなんて、にわかには信じられないほど間延びした風景が広がっている。
時の流れがゆるやかすぎる。

11

今回自分のバイクで行くことにしたのは、佐渡は想像以上に広いので、本数の少ないバスを使うのがあまりに非効率、ということとやっぱりこの島を自分で走ってみたかったという思いがあってのこと。
ちなみに玄関口である両津港から水金町まで、軽く25kmほど。まぁほぼノンストップなので30分くらいで着きますけどね。

12

地図で「島屋」と書いてあった場所には長塀を持つ立派なお宅。
かなりの大店だったのでしょう。名残を今に伝えていました。

13

一段高いところには鳥居と祠。
場所柄、遊郭と関連がありそうな気がするけど真偽のほどはよくわからず。

この後は、佐渡に遊郭ができる所以となった金山へと向かった。
江戸、明治、それぞれの坑道が見学できるのだけど着いたのが遅く、江戸時代のほうしか見れなかった。
なのでここで書くのはどうしようかな、と。気が向いたら書くかもしれない。

[訪問日:2014年9月22日]

Loading
地図の中心へ
交通状況
自転車で行く
乗換
現在地
Google Mapsルートを検索


スポンサーリンク
広告336×280
広告336×280

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする