1617年(元和3年)から1958年(昭和33年)まで、約350年もの間公許の色街として君臨し続けた街、吉原。
最後の遺構となった戦後カフェー建築も軒並み70年近い年月を重ね、残された余命もたぶんもうそんなに長くはない。
今のうちにしっかり目に焼き付けておこうと江戸町通りの東側、伏見通りを歩いてきたが、最後に少し離れた場所に残された遺構を訪ねてきた。
ハート型に見える遺構
実は場所がわからずかなりウロウロしてしまったが、なんとか辿りつけたのがこちら、京町二丁目と角町に挟まれた細い路地に目的のそれはあった。
際立ってカフェー調の意匠が施されているわけではないが、左側の壁面に注目してもらいたい。
この、ピンク色のレリーフのような部分が、ハート型に見える。というか、ハートをモチーフにしたとしか思えない。
こんなカフェー建築、全国歩いてもそうそうお目にかかれるものじゃない。
「赤線跡を歩く」にも載ってるし、たぶん吉原の遺構で一番有名、かつ見所になるんじゃないかなぁと個人的には思っている。
並んだ鉢植えが、非常に華やかな印象を与えている。ちょっと心がほっこりした。
数は多くないけどこの細い路地にも数軒のカフェーがあったようで、仲之町通りから花園通りまで歩いてみたところ確かにそれっぽい建物がいくつか遺っていた。
これなんか転業アパートっぽい。
中には廃墟となった遺構もあった。
赤線跡ではよく見られる光景のひとつではあるが、華やかな表通りとのギャップが別の意味で心に刺さった。
角町通りを挟んで反対側、江戸町通りとの間の路地に遺っていた、「THE 遺構」と言える趣きの転業旅館。
角町通り。
右側に見える「ホテル稲本」が、吉原遊郭3トップを形成していた稲本楼の跡地。
名前変わってなかったんですね。
ちなみに角海老楼があったのは京町通り、千束保健センターの向かいの今マンションが建っているところ。
仲之町通り。大門方面を望む。
すべての路地を歩くにはあまりにも広く、時間の都合でそれはできなかった。
今回の執筆に際し改めて色々調べてみたら、他にも遺構が色々と残っていたようなのでまたいつか、今回見れなかったところをじっくり見てみたい。
何より、四月の桜まつりのときに催される「おいらん道中」。
今年、行こうとして行けなかったので是非来年は足を運んでみたいと思っている。
※2016年に「おいらん道中」を見に行ってきました!
[訪問日:2014年10月19日]
コメント
「遊郭の世界」という昭和51年発行の本がございまして
著者の中村芝鶴さんは、この大文字楼の関係者です。
記述によると八文字という独特な歩き方も
いろいろ型があるようで、店によっても違っていたようです。
>maruさん
昭和51年ですか・・しかし興味深そうな本です。
八文字は「外」と「内」があるようですね。吉原は外で、京都が内だとか。えぇ、それ以上のことはよくわかりませんが(笑)
あ、コメントはイタズラ防止で承認制にしているんですm(__)m
芳町…他界した父の除籍謄本から、この辺りを本籍とする女性の養子であったことがわかりました。自分の旧姓であったにも関わらず、血縁関係のない女性。父はその方について語ることは一度もありませんでした。
戸籍上だけだったのか…実際に育てられることはなかったのか…
悲しい物語しか思い浮かびません。
26年間私の本籍地であったこの地のことを少しづつ調べるつもりです。
参考にさせていただきます!
きっとお父様には、身内にも語ることのできない苦しい胸の内があったのではないでしょうか。
私の拙い文章が何かの足しになるのであれば嬉しい限りです。
大変だと思いますが、頑張ってください!