沖縄にある社交街の中で、とりわけ歴史的背景が興味深いのが今回綴る「栄町社交街」である。
その栄町社交街は、ゆいレール安里駅のすぐ東側に広がっている。
安里駅を降りると、ここにも山羊料理のお店が目につく。
その隣にあるのがスーパーりうぼう。よく栄町社交街への目印と称されるスーパーである。
しかしなんて読むんですかね。「りゅーぼー」でいいのかな。
沖縄でよく見かける屋台風そば屋。“風”というか完全に屋台。
得てしてこういう店のほうが味に定評があるというのは素直に頷ける話でもある。
栄町社交街
そば屋の先を右折すると、そこはもう栄町社交街の一角である。
簡易宿泊所にスナック、そして旅館などが目につく。
さすがに「日本の外国」と形容される沖縄だけある。上半分だけ見ると函館の洋館ですかとツッコみたくなるような洋風建築。
しかし、ただの旅館だと思ったら大間違いである。
この辺りは、かつては「真和志村」という行政地域だった。戦後の都市計画で、再開発の中心に据えられたのがこの栄町だったというわけである。
再開発は、この四ツ辻を中心に整備されていったのであるが、実はここは「ひめゆり学徒隊」で知られる女師・一高女(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の跡地である。
その南側に社交街のゲートが立っている。
ざっと歴史を俯瞰すると、戦後、米軍に接収され土地開放が進まない那覇を尻目に、真和志を含む那覇近郊で人口が膨れ上がることになる。
そして、再興が望めない「辻遊郭」の代替地としての性格を持った料亭街が栄町に形成される。これがこの色街の起源である。
その後、辻が開放されたことにより料亭はこぞって辻へ移転。その結果、栄町は料亭街から旅館街へとシフトし、やがて特飲街へとその姿を変えていく。
つまるところ、栄町は元赤線、そして旅館はちょんの間ということになる。
そして、壊滅させられたコザ吉原や真栄原の悲劇的結末をよそに、栄町は未だに生きているという。
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