四国一、ダイナミックさに彩られた地だと思うのである。
轟々と、すべてを飲み込むように蠢く鳴門の渦潮。そして、真夏の夜に人々が乱舞する阿波踊り。
名勝・眉山の懐に抱かれた徳島の街を走っていると、なんとなく高揚感がふつふつと湧いてくるのはその土地柄のなせる業なのかもしれなかった。
そんな、9年ぶりの訪問者を迎え入れてくれた徳島に何用かと言えば、やはり遊里なのだ。
「秋田町」なるところにあった遊郭跡を見るために、高知から高速をひた走ってやって来た。
やらかす街
その場所は、徳島駅から南へ約2km。秋田町5丁目から栄町5丁目にかけての一帯となる。
一見して斎場っぽくない名の斎場、「ヤラカスシティホール」が目印である。
というより、名前といい場所といい確信犯としか思えないわけである。このセンスに脱帽するしかない。
ヤラカスシティホールの西側の、広めの路地がやらかす街である。ここを南下したところに本日の目的地がある。
最初に目についた遺構がこちら。妓楼の面影を色濃く残している。
昭和5年の『全国遊廓案内』によれば
此の遊廓は明治初年旧藩主蜂須家氏の城内から局長家を移して遊女屋を許可したことに初まったものである。遊楼敷総計83軒、娼妓250人を有する大きな遊廓である。なお外に芸妓十数人位居る。
とある。かなりの規模だったことがわかる。
ところが戦局のさなか、空襲で壊滅してしまいその後再興。戦後は「南新地」という赤線地帯になったという。
そして、昭和33年(1958年)の売防法完全施行によりめでたく廃業。ちゃんちゃん。
・・とはいかなかったのである。
あまり大きな声では言えないが・・この街は今でもなお現役なのだ。これがやらかす街の由縁である。
目の前には妖しさ満点の長屋が建つ。もう少し寄って観察してみましょう。
無造作に開け放たれたドアに、謎のついたてが立てかけられている。
つまりは・・ここに座る人がいて・・その・・足が冷えるから・・ピーー
これ以上は放送禁止とさせていただきます(笑)
訪れたのが年明け早々のことで、世間は正月休みだし色街と言えど例外ではないだろうとすっかり油断していたら、なんと白昼堂々と営業していて驚愕してしまった。
声さえかけられなかったものの、数人のおばちゃんの視線が刺さって満足に写真が撮れなかった。
昼間からやってるんですねここ・・。
これで、タイトルにも掲げた「パンパン通り」と呼ばれる理由がおわかりいただけたのではないかと。
ちなみにパンパンとは赤線時代の街娼のことであるが、その語源は、女性を呼ぶときにパンパン手を叩いたから、というのが通説となっている。
ちょっと前まで筆者はずっとやらかすときの擬音語が転化したのだと思っていた(恥)
↑と思ったら、実際こういう説もあるらしい・・
この旅館も営業中だった。この業界には三が日という概念はないんでしょうか。
廃業したような雰囲気の建物もあった。正月飾りがあるってことは・・まさか人が住んでるのか。
一軒だけ、戦前風の建物が残っていた。屋号が書いてあったものの、字が剥げ落ちて判読できなかった。
ここ秋田町は、夜にこそその真価を発揮するというので、徳島を離れる際に車で通ってみた。
そこで筆者は、室内から漏れ出るピンク色の光に映し出された、若い女性のシルエットを確かにこの目で見た。
まるで通行する車を警戒するように、中の者がこちらに意識を向けてきたのが瞬時に気配でわかった。
まさか、徳島にこんな魔窟のようなところが残っているとは夢にも思わなかった。
阿波踊りに見られる情熱的な県民性は、性に対する野放図ささえ生み出したというのか。
さて、『消えた赤線放浪記』によれば
平行する二本の通り沿いに、戦後の「南新地」時代のものと思われる建物が二十棟ほど残っている。
とあるのでもう一本の通りも念のため歩いてきた。
結論から言えば、一本西側の通りにはいかにも転業とわかる旅館が一軒だけ。それ以外はもう何も残っていなかった。
一見して普通の住宅街の中に紛れ込むのが、先日書いた玉水新地とよく似ていると思った。
何より夜に見た光景が強烈すぎて、旅の1ページにどぎつい思い出を書き込んでくれた徳島の地に感謝の念すら覚えた。
余談。
せっかく来たのに色街だけなんてのは色んな意味で痛いので、徳島ラーメンと阿波踊り会館、眉山はしっかり抑えました。
以前来たとき休館だった阿波踊り会館。実演にいたく感動して、徳島に住むのも悪くないなぁなどと思いながら、かの地に別れを告げた。
[訪問日:2015年1月3日]
コメント
「やらかすときの擬音語が転化した」、、、爆笑しました。
たしかに、そんな音ですよね。
10枚目もお宅良い感じです。
絶対そう思ってる人他にもいると思うんですよ(笑)
改めて隣の家と比べてみると新旧の対比がすごいですね。
私が高校生の時に同級生が近くにいて、単車のキーを抜かれてからかわれた事がありまだ16歳ですけどと言うと年でするもんちゃうと言われました。野球部の先輩が卒業後連れてくれたけどオロナイン軟膏を潤滑油にしてたのか終わった後息子がオロナイン軟膏の臭いがしたのがなつかしです。
パンパンと手を叩きながらいい子いるよとポン引きおばちゃんが人が良すぎて、花、時間、泊まりとあり花が当時5000でした。それをつけで、(立て替えて)客引きして集金に困っていたおばちゃんがいました。いつもニコニコ現金払い貸せば貴方はこなくなる。
コメントありがとうございます。
昔は人情があったんですね・・いいエピソードです。
それにしても、花というのはあまり聞かない呼び方ですね。ショートのさらに短いバージョンでしょうか。