東北屈指の歓楽街として隆盛を極めた八戸市の「小中野新地」。
栄華の残照を求め歩いたのは、冷たい雨が降るある夏の朝であった。
凄まじく年季の入った木造二階建て。
旅館のように見える。これは新地時代の遺構と断定していい気がする。
町内会は「浦町」
どうやら町内会にはまだ「浦町」の名が使われているらしい。
これを見たら横須賀の柏木田を思い出した。
まるで古傷を隠すかのようにアンチエイジングされているが、やはり特徴的な意匠はごまかせない。
新むつの女将さんに見せてもらった昭和初期の地図を見ると、ここには「玉楼」という妓楼があったようだ。
屋根には「玉」の文字。
いや、地図を見たときから変だと思ったけど、よくよく見ると上と右に線がある。
「司」の内側が「玉」になったような。こんな漢字あるの??
脇道には、ここが盛り場であった痕跡を辛うじてとどめる一角。
今度は一転して赤線時代の遺構のような建物。
戦後も普通に営業していた、というのは新むつの女将さんの弁。
昭和30年の『全国女性街ガイド』にも八戸の記述があるので、やはりそれは確かなようである。
色あせ加減が艶っぽさに磨きをかけている場末感満載のスナックがそこにはあった。
これはもう中を見ないわけにはいかない。
昭和30年代から時が止まっているかのような胸熱すぎる光景。これは素晴らしい。
もう一軒強烈な物件が目に止まった。
庇テントがズタボロに裂けている。あまりの完成度の高さに思わず武者震いがした。
ピンクタイルが色街の郷愁へと思考をいざなう。
これは・・惹き込まれるわ。
端っこまで来た。東西300mという、比較的広いエリアに浦町の指定地はあった。
小中野新地は、昭和5年の鉄道の開通で船運の需要が減り、衰退していったという。繁華街も小中野のお隣、本八戸のあたりに移り、今ではもう不夜城であったことが嘘であるかのような静かな町並みが広がっていた。
得も言われぬ余韻に浸りながら、八戸の街を後にした。
[訪問日:2015年8月15日]
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