栄華と悲劇の舞台…大井三業地跡を歩く

東京都
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きっかけは何だったのか・・今となっては思い出せない。
その頃、それまであまり関心のなかった「花街」にふと興味が湧いてきて、それから色々な場所に足を運ぶようになった。

まずはじめに選んだのが、長い間行きたかった京急の「大森海岸」であった。

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以前、運動がてら仕事帰りに大井町から蒲田まで歩いたことがあって、そのとき通った大森海岸…あの頃はまだ歴史なんて知る由もなかった。

赤線や遊郭に興味を持つ人が必ずどこかで目にする「RAA」という戦後日本の闇。
悲劇の幕開けとなったのが、他ならぬこの大森の地だったのである。

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駅前を走る第一京浜の歩道橋に上がると、威圧的に屹立する高層マンションが右手に見える。
手前から数えて4棟目、ライオンズマンションが建つ場所こそ、慰安施設第一号となった料亭「小町園」がかつて存在した場所である。

いつか現地に立ってみたいとずっと思っていたので、個人的にはここに来れたことに大きな意味があった。
あれこれ思うことはあれど、RAAについて書き出すと本筋から逸れてしまうので、ここでは場所の紹介だけにとどめておく。

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大井三業地へ

大井三業地は、第一京浜の東側、「小町園」があったところと、西側、南大井三丁目にまたがる花街だったようである。後者を歩くと、往時の建物が風前の灯火ながらぽつぽつと残っていた。

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1963(昭和38)年創業の老舗そば屋「布恒更科」さん。花街と直接関係はないが、かなりの有名店とのことである。が、絶賛工事中のため残念な絵に。

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こちらはかつて料亭だったという「入船」さん。屋号書いてあるけど言われなきゃわからないほど普通のアパートにしか見えない。

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ところが、近づいてみるとディスプレイがあり、華やかなりし時代の写真が展示してあった。
ちなみにここ、現在は洋食屋さん&アパートになっている。

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そのすぐ近くに、古ぼけた民家が三棟並んでいた。特に右手の建物は、もしやと思わせるに値する佇まいをしている。

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そう言えば…初めてということもあるので、「花街」や「三業地」とは何か、について簡単に言及しておこうと思う。

簡潔に言えば「芸者遊びができる場所」である。現在なら京都が最もイメージしやすいだろうか。

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ちょっと雰囲気のあるお食事処。

花街は一般的に「料亭・料理屋」「待合」「(芸妓)置屋」の三業で成り立っていたので、俗に「三業地」と呼ばれるわけである。
地域によって二業地になることもあり、京都などは「お茶屋」「置屋」の二業である。

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ちなみに、

待合:客が出向く場所(貸席のこと)
置屋:芸妓待機場所(ここから待合に出向く)
料理屋:料理を取る場所

つまり、客は待合で料理と芸妓を手配してもらい、料理と芸を楽しむ。というシステムになっている。
場所によっては芸妓が体を売ったり、そもそも娼妓がいたりと、花街と遊郭の境界は結構曖昧だったようである。

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そしてこちらが…
界隈で唯一とも言える、往時の姿のまま現在に残る遺構。

見ての通り、別段際立った特徴はない。言ってしまえばただの廃屋である。
今まで花街に興味が湧かなかったのは、遊郭跡で見られる妓楼やカフェー建築のような、あのひときわ異彩を放つ意匠が見られないのが理由だったのでは、という気がしている。

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ただ、建物が持つ普遍的な価値というものを、花街の機能や「そこで行われていたこと」を含めて考えてみると、実はかなり貴重な対象であると思う。

特に、花街の場合は跡継ぎ問題でなくなってしまう場所も多い。見ておいて損はない。

※こちらの建物は解体され、現在コインパーキングになっています

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花街と遊郭の境界が曖昧だった証拠に、大森海岸には近年まで特殊な浴場が営業していた。
以前からその存在は知っていたが、結局お目にかかることはできなかった。
そこにあるはずのそれは、廃業し、ビジネスホテルになってしまっていた。

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そして極めつけが、駅から線路沿いを南下すると現れるこのホテル群。
ビジネスではなくアレなホテル。言わずもがなである。

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なぜそっちに向かったのかと言えば、この磐井神社に行くため。
江戸時代には徳川家の将軍も参詣したという記録が残っている歴史のある神社。

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境内右手にある稲荷神社の玉垣を見ると、料亭や置屋の名が残っている。この地に三業地があった動かぬ証拠である。
なお、第一京浜を挟んでここの反対側には、「大森海岸三業地」と言う別の花街があった。が、名残はほぼないということで、こっちは足が向かなかった。

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そう言えば、駅の近くにこんな少女像が建っていた。
ひょっとしたらパンパンを表しているのではなかろうか。
忌まわしき歴史をいつまでもこうして刻み続けるつもりなのだろうか。

だとしたらあまりにも哀しすぎる。
どうかそうでないことを願うのみである。

[訪問日:2016年1月24日]


コメント

  1. maru より:

    あの民家3棟残っていましたか、、、
    ソ-プはなくなったようですね。

    昔はすぐそばまで波がきていたようで、
    昭和40年ぐらいまでは、潮干狩りもできたと
    記憶しています、、、まちがっていたらごめんなさい。
    海苔も有名ですね。

    • machii.narufumi より:

      なんと・・すでに行ってましたか。

      その認識で合ってるみたいですよ。昔は海もキレイで小魚、エビ、蟹なんかもいていつでも潮干狩りができたそうです。
      たぶん小町園があった場所の裏手が波打ち際だったんだと思います。今じゃ信じられませんね。

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