昭和の置き土産…横浜・都橋商店街

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横浜。それは筆者が大好きな街である。
これまで都合三回住んだことがあるし、人生の半分以上を神奈川で暮らしたのだから無理もない。

今では異国情緒ただようおしゃれな街として衆目を集めているが、表の顔があればやはり裏の顔もある。

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冬空の下、赤い電車で日ノ出町にやってきた。
と言っても黄金町の様子をウオッチしに来たわけではない。

ここもずいぶん長いこと“行きたい場所リスト”に入っていた。正直「やっと来れた感」しかなかった。

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大岡川プロムナードを桜木町方面に歩いて行く。久しぶりに横浜に来たが、やはりホームのようで居心地が良い。

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闇市から生まれた都橋商店街

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横浜屈指の歓楽街「福富町」と野毛を分かつ橋へ差し掛かると、目の前に見えてくる。
これが本日の目的地。泣く子も黙る「都橋商店街」、通称「ハモニカ横丁」である。

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大岡川に沿ってゆるい弧を描きながら、まるでバリケードか要塞のように長い二階建てが伸びている。その長さ、約100m。
川向こうから眺めると、一見駅のプラットホームか何かのように見える。文字通りの異様な光景が拝める。

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要塞の内部は、アパートのように個室が規則正しく居並ぶ様子が見て取れる。
そしてそのどれもが飲食店、それもバーやスナックの類である。

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商店街どころか飲み屋街にしか見えないこの風変わりな構造物の誕生については、1964年まで話を遡らなければならない。そう、昭和39年、それは東京オリンピックが開催された年である。

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戦後、桜木町から野毛にかけて闇市が発生し、それがそのまま屋台となって路上で営業していたという。
しかし、お隣関内の体育館がオリンピック会場となったことで、時の為政者が世間体と外面のために強制移転させることになった。その帰結がこの「都橋商店街」というわけだ。

移転と壊滅の差はあれど、どことなくY150と黄金町の関係に似ていると感じるのは気のせいだろうか。

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やっと反対側へ抜けた。いざ二階へ、もとい、要塞の内部へと歩みを進める。

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二階は人一人なんとかすれ違えるぐらいの幅の廊下が続いていた。下は川である。
酩酊状態でフラついたらあわや転落しかねない雰囲気である。

この汚さにかけては定評のある大岡川に落ちるとか罰ゲームでもやりたくない。

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しかしここから眺める景色はなかなか風流である。夜にはビルの灯りが川面に落ちて幻想的に揺らめく様が見れよう。
夜風に当たるためにわざと呑み過ぎるのも、ここでは存外悪くないかもしれない。

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各店舗にはきちんと部屋番号が割り当てられていた。さながらアパートである。
しかしそうでもしなければ、名前だけで店にたどり着くのは普通に困難なことであろう。

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アパートと言うか昭和のマンション、むしろ団地に近いだろうか。
小学校の頃、こういうところに住んでた友達がいたなぁ。

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外から鍵がかけられるようになっているのは、部外者に勝手に使われるのを防止するためであろうか。
確認はしなかったが、昼間は使えないようになっているのかもしれない。

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そうなのである。

横浜と言えば、筆者を20年来魅了してやまないあぶデカシリーズの舞台。ここを訪れた2週間後、心待ちにしていた「さらばあぶない刑事」を満を持して新宿バルト9に観に行ったのだ。

そしたらなんと・・・この都橋商店街が劇中に登場しているではないか!
あれは実によかった。

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さて、そろそろゴールが見えてきた。16時過ぎに行ったので、もしかしたら開いてる店があるかもしれないなぁと思いながら歩いたが、少し早かったようである。結局誰にも会わなかった。

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階段の下には「都橋飲食店街」と書かれていた。やっぱり商店街だと色々無理があるのだろう。
まったくお金を落としてないのにお礼を言われるのもなんだかむず痒い気分である。

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50年を過ぎ、今なお野毛のランドマーク的な存在として根を張り続ける都橋商店街。
4年後には、再び東京でオリンピックが開催される。五輪の周期では一巡りしたと言えよう。

1964年にここで一杯ひっかけた訪日外国人の、今度はその子供が2020年にここで同じことをする、なんてことだって十分あり得る話ではないか。
それは取りも直さず、長い間同じ場所で人々から愛されてきた証左である。

まだ横浜にもこんな風景が残っているのだ。「昭和」が残した幻影は、今日も我々の心を揺さぶるためにそこにとどまっている。

[訪問日:2016年1月24日]


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