その駅に降り立ったのはそのときが初めてであった。
吹き抜ける風に夏の息吹が混ざり始めた5月も終わろうというその日。
赤い電車に揺られて、横浜は黄金町にやってきた。目的はただひとつ。かつて魔窟とまで言わしめた、暗黒の歴史を呑み込んだ街の風景ををこの目で確かめたかったからだ。
『天国と地獄』の舞台に選ばれた街
改めて説明する必要もないと思うが、黄金町はかつてちょんの間(置屋)が身を寄せ合うように密集して立ち並ぶ私娼街だった。黒澤映画、『天国と地獄』では犯人竹内が覚醒剤を使って殺人を犯す麻薬街として描かれている。
目の前を流れる大岡川は、いつだったか一世を風靡したあのタマちゃんも来た川だ。今ではすっかり桜の名所と相成っているが、魔窟時代は水質汚濁でリア充など到底近寄れないような臭気が立ち込めていたそうだ。今では想像もできない。
今からちょうど10年前。横浜開国博「Y150」に向けたイメージアップの生贄に選ばれたのが黄金町だった。神奈川県警が威信をかけてつぶしにかかり、街はあっという間に壊滅に追い込まれた。
現在でも外面は当時のそれと変わらない。しかし、入居しているのはお洒落なカフェやショップだったりとどこにでもある町並みになっていた。
果たしてそれが小学生の本心であったかどうかは甚だ疑わしいが、2006年に立派な社会貢献が行われたようだ。そんな子どもたちも今年成人を迎えるのか。時の流れは早い。
川沿いの裏、ガード沿いの路地には行き場を失った家財道具たちが悲哀の色を滲ませながら陳列されていた。
反対側に移動してみた。かつて置屋が軒を連ねていた高架下は封鎖され、とても最盛期の90年代には250あまりの店舗がひしめいていた界隈とは思えない生気の抜けたような表情を晒していた。
黄金町は、大阪・飛田新地、沖縄・真栄原社交街とともに三大ちょんの間街と言われていた。バブル景気に乗り、昭和50年代以降アジアから出稼ぎに来た女性たちが街を席巻するようになる。
それに追われるように、日本人女性は川向こうの曙町へ。身の安全と安心のために合法な店舗に流れて行ったのだ。
間口が2mほどしかない店先では、赤い光にぽうと照らされた女たちが片言の日本語で男たちを誘う。まるで誘蛾灯に集まる蛾を見るような光景がここの日常だった。
相場が20~30分で1万円だったというから飛田よりも安い。手軽に遊べたことが街の発展につながったことは想像に難くない。
ガード沿いからふらふら路地に入って行くと魔窟の痕跡をとどめるような町並みが残されていて、まるで結界を越えて「異界」に迷いこんでしまったかのような錯覚を覚えた。
が、「入浴隨意」の意味がよくわからない。直球に見せかけた変化球のような言の葉に思わず唸り声が出た。奥が深いな黄金町。
まぁ、身も蓋もないことを言い放つならば、たぶん風呂つきの貸し部屋(要するに連れ込み宿)だったってことだろう。
衛生面を気にする人にとっては「天国」であったに違いない。
ガード沿いはすでに浄化作戦のもと一掃されてしまっているので、今、黄金町を歩くとしたらこのあたりが一番の、そして唯一の見所になるであろうか。そんな風に思った。
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コメント
黄金町のちょんの間は無くなる3年ぐらい前に一度だけ利用したことがあります。高架下脇の店舗だったことだけは覚えていて、日曜の昼下がりでひっそりとしていたのですが店のドアを開けるとちゃんと店内で女性が一人で待機していて、そこで値段の交渉をするような形でした。小料理屋といいつつも料理やビールすら出ず、交渉成立したらすぐに二階へといった感じでした。
一階の店舗は当然ながら狭く、上への階段も狭く急で二階も狭くかつ薄暗く、布団が敷いてあるだけでした。ちなみに相手をしてくれたのは台湾の方で当時は日本人はほとんど居ず、衰退していたように思えました。今思えばいい経験? をさせてもらったなと思う一方、周辺住民からすれば怖いしイメージダウンになるしで無くなっていく方向になってしまったのは時代の趨勢という気もしますね。
長々と失礼しましたm(_ _)m
大坊つよし様
コメントありがとうございます。リアルに当時を知る方からのお話、非常にありがたく思います。
おおよそそんな感じかなと思っておりましたが、実体験を聞けて腑に落ちました。15年くらい前の出来事でしょうか。もうそんなに経っているのか、と言う印象です。
今ではもう暗黙的に営業している場所もほとんど消えてしまいましたね。関西の新地ぐらいではないでしょうか。おっしゃる通り時代の流れかと思います。
ここもつまらない街になってしまった。全盛期はタイやフィリピンのボディコンのお姉ちゃん達が軒先に並んでて「え~らんでぇ~(選んで)」と大合唱。ある店は細長い階段にお姉ちゃんが5人くらい縦に座っていて微笑みかけてくる・・・いい街だった。
今じゃ内輪ウケのアート気取りのチンケな入りにくい店がひしめいてて近寄り難いね。
ホントにつまらない似非アート町。
そのお話を聞くと、ホントいい街だと思います。
当時を知る人からしたら、やはりものすごいギャップなんでしょうねぇ。私が行ったのはもう3年前なので今がどうなってるのかわかりませんが、まぁだいたい想像はつきます。
黄金町は本物のアートタウンではないですよ。
約20年ぐらい前、場外馬券行った後でよく冷やかしで歩いてました。入った事はありませんが。
昼間は閑散としてたけど、夜は縁日と言うか温泉街と言うか、一大観光地みたいで本当に凄かった。
あんな派手に営業してて、よく警察も黙ってたなと思います。
横浜から電車で10分、地理的には凄く良いけど、
あの辺りの土地の大半は恐らくは裏社会や不良外国人が絡んでるだろうから、
大々的な再開発はかなり難しいでしょうね。
私は現役時代は知らないので想像するしかできませんが、当時はよほどすごかったんでしょうね・・
黙認されていたのか、持ちつ持たれつの関係だったのかはわかりませんが、警察も本当は潰したかったのかもしれません。
そうですね。地権的な問題でデベロッパーも手を出しづらい、私もそう思います。
そうですね、横浜初黄日商店会のちょんのま長屋は、アートの街に変えられてしまいましたね。“臭い物には蓋~”でしょうか?市が考えた蓋はアートだったんでしょうね~
わたしは1999年頃から頻繁にロシアに滞在してました。横浜に帰ってくるとロシア語が恋しくなって、真っ先にちょんの間に行きました。わたしは女性なので、2階に上がることはありませんでしたが、ロシア語圏の女性たちとのおしゃべりは楽しかったです。明るく強い女性たちでした。仕事のシステムや、国籍別お客さんの女性たちの扱いの違いも話してくれました。
とても人間の生を感じる街でしたね。やはり自然発生した文化の方が作られた文化より面白いですね!
今は初黄日商店会どうなっているのでしょう?早速探検に行ってみようかな!
こうして当時の生きた話を聞かせていただけるのはやはり嬉しいです。
黄金町は男性のための町だと思っていましたが、色々なニーズがあったのだと感心しました。
女性たちから聞いた話というのも大変興味深いです。
ああいう場はよく「悪」だと言われますが、当時を懐かしんで回顧される方も多いですし全部が全部そうではないと私は思っています。
是非また歩かれてみてください・・もう当時の面影はありませんが。
昔の黄金町がなんとなく懐かしくなり検索してきました。
私が大学生くらいの頃まで、日が落ちてから黄金町の中を自転車で通ると、
赤いネオンに照らされたボディコンの女性が、
「オニイサンドウ?」とか「アナタマダハヤイネ。チョットコドモネー」とか、
呼びかけらて、ドギマギしたり面白がったりしたものです。
まあまあ品行方正に、横浜駅あたりで遊んでいた私には別世界を感じさせました。
そして、現在のアート街は、おっしゃる通り不思議なくらい魅力がありませんね。
なんでああなっちゃうのだろう。
プロの凄みはなく、かといって素人の自由さや出鱈目さや微笑ましさもなく、
嫌味さ・スノッブさすらない。
あれなら桜木町に昔あった巨大グラフィティの方が…私は決してヒップホップ文化は好きでないけど…の方がまだ面白かったな。
それでいて妙にすさんだ雰囲気だけは残っている。
昔を知ってる私だからそう感じるのか、
それとも、呪いみたいな場の空気ってもんがあるんですかね。
現役時代を知らない私には、異世界を思わせる描写です。何とも官能的と言いますか。
今もう、日本中探しても当時の黄金町のような場所はないと思います。
是非や善悪はともかく、そこに確かにあった歴史をなかったことにするのはやっぱり個人的には違和感があります。
たぶん・・アートの街っていう方向性の問題なのかもしれませんが。
当時を知る人にとってはそのギャップはやはり計り知れないものと・・お察しします。
いや~懐かしいですね。若いころ、昭和47年頃から3年位黄金町にいましたが本当に良い街でした。駅改札を出ると右に喫茶店、城が有り右に三益宮殿というパチンコ店、その目の前道路の向いに万両圓というパチンコ屋さん、初音飲食街もにぎやかでよく飲みに行きました。川沿いには無数の屋台が有りました、又駅の裏側も勝太郎・ブルームーン・小武蔵といった具合に小さい店が立ち並びママ達には大変お世話になったものです。
少し歩いて若葉町には洋画と邦画の映画館が2軒ありオールナイトで見ていたものです。
近くには根岸屋もあり素晴らしい街でした。
10年くらい前に様子を見に行きましたが近代的にはなったようですが、なにか寂しさを感じました。福富町はキャバレー全盛時代もう旧き良き時代は無いのでしょうね。
貴重な思い出話を頂戴し、非常に嬉しく思っております。
私にとっては40年代は写真や映像でしか知り得ない時代ですが、なんとなく情景が浮かんでくるようです。
賑やかで楽しい街。今では想像もできないですね。
当時を知る方が今の黄金町や曙町、福富町の風景を見て寂しさを感じられるのはすごくわかる気がします。
須崎パラダイスの記事からこの記事にきました。
川の向こうですが生まれも育ちもこの辺でして、「黄金町のえせアートのコメント」に共感してしまいついコメントしてしまいました。黄金町だけではありませんがこの辺は文化の欠片もなくなりました。文化といっても自慢できるものではないかもしれませんがこの吉田新田界隈は二業種、三業種があちらこちらにある地域でした。私の地元は二業種の料亭街でした。今はよそ者だらけでマンションしかありません。うちのおばあちゃんが近所の元料亭仲間や芸者仲間の家へ遊びに行く時はよく引っ付いて行ってよく小遣いをもらってたことを思い出します。40年前ぐらいまでは路地から山下公園の花火が見えてました。昔の方が風情があっていい町でした。
すごくよい思い出話をありがとうございます。
あのあたりに二業地や三業地があったというのは初耳でした。
横浜も都内もどこだってそうだと思いますが、今はマンションやビルだらけで個性のない均質的な街並みしか見られなくなりました。昔を知る方からすればつまらない街なんだろうな、とつくづく思います。
古い木造住宅や未舗装の路地なんかに風情や郷愁を感じますが、都会であればあるほどもう見つけるのは至難の業になってしまいました。
35〜40年ぐらい前ですが、夜中の2時頃なのに原宿の竹下通りのような人の往来で、ピンクの提灯の灯りの中に唸るような人の流れがあって、見落とすような路地に入ってもどこまでもそれが続いてたように思います
まさしく竜宮城でありました
私にはイメージできない情景ですが、それは夢のような世界ですね。
まさに桃源郷のようです。
隣駅に住んでいますが、わざわざ降りて楽しもうと思える街ではありませんし、
シネマジャック&ベティに行く時しか用のない駅です。
あのいかがわしさはあっても街は元気でしたよ。
私は冷やかしばっかりで2階に上がりはしませんでしたが、若かったのでネェさん達がお尻をつついてきたり、後ろから肩や頭叩いて知らないふりしてもう1回振り向くとあかんべーしてきたり、通りすがりに耳にフッと息を吹きかけてきて「アソビしない?」なんて言われてたわいもない会話をしたり、とにかく上がらなくても楽しかったですね。
毎日の仕事のストレスを若い客にちょっかい出したりからかったりして少しでも発散させてたんでしょう。(お互いですが 笑)
各種香水のにおいと外国人の大衆のにおいと各種料理屋の換気扇から流れてくるダシのにおい、八角のにおいが混じりあった妙なにおいがあの町のすべてを物語ってるような気がします。
アートは大好きで美術館やインスタレーションがあれば一目散に見に行くんですが、ここのアートは何の魅力もありません。アートにもなってないです。駄アートです。
浄化して無臭にはなったんでしょうが、にじみ出てくるしょっぱさとすっぱさ。
言葉悪いですけどモテない奴らの負のオーラしかないんです。
人との交流を好まない人間たちが明かるく騒がしい奴らを権力を利用して追い出して、誰からも邪魔されない馬鹿にされない穏便な居場所を見つけてその勝利の証を見せつけるためだけのために占拠しているだけ、そんな気がします。
結局は一部の人間達だけが居心地良いだけで、他の周りの人たちの居心地のことは何も考えていないですよ。
あと、あそこで儲かるような商売させたくない派がいるんでしょうね。憶測ですけど。
はまれぽの同様の記事も読んでみてください。
記者さんが言いたいこと極力抑え気味に書いていることがわかります。
本当はもっとグザっと言いたいけど、婉曲表現するしかなかったような歯がゆさと、アートの代表の人のいい加減さと半端さが伝わってきます。
今度はアートバイバイ作戦でもやりますか 笑
コメントありがとうございます。
遅くなりましたがはまれぽの記事読んでみました。
私はアートの具体的な部分までは知らなかったものですから、「なるほどね」という感じでした。
無理やり蓋をしたかったのでしょうが、結果的にちぐはぐな印象が否めないというか、、アートである必然性はまったくもってよくわからなかったですね。。
そういう意味では、昔のほうがどれほど情緒的で味わい深いまちだったか知れませんね。
まちの活性化に貢献できてるのかも疑問ですし、いっそ何もない状態のほうがよかったのかもなぁ、なんて思いながら読んでました。
アートバイバイ作戦、いいですね(笑)