2016年12月30日 AM8時36分
新大阪から乗り込んだこだま号博多行は、定刻通り降車予定の駅へと滑り込んだ。
新しい旅の幕開けである。
ひとつ前の記事が布石以外の何物でもなかったりする、今回からの新シリーズ。
すでに半年も前の話になってしまったが、年末年始に行った広島の旅を思い出しながら書いていこうと思う。
福山へ上陸
ここ近年、連休の遠征では1~2県に絞ってじっくり回るスタイルを採っているので今回は広島県のみ。(笠岡だけは近かったからおまけで行った)
福山in、広島outの5泊5日で行程を組んだ。
そんなわけで、若干順番が前後するがまずは二日目の朝、福山の話から。
国道沿いの異界
紺碧の空の下、福山駅から南東へとぼとぼと歩いた。程なくして、西日本を東西へ貫く大動脈、国道二号線が目の前に現れる。
横断歩道を渡るとそこは異界だった。
太陽と入れ替わるように眠りについたその街は、ネオンなど点かずとも姿かたちはもはや異界以外の何物でもなかった。
そう、かつて福山の遊里、新町遊郭があったのがこのあたりなのである。
新町遊郭は明治時代に成立した遊里で、おなじみ昭和5年の『全国遊廓案内』には
目下貸座敷の組合員は五十三軒あるが、揚屋は二十五~六軒くらいで娼妓は百六十人居る。中国、四国、九州あたりの女が多い。芸妓は一人も居ない。
とある。
広島に原爆が投下された二日後、福山は文字通り絨毯爆撃のごとき大空襲に遭い、遊郭もそのとき焼け落ちてしまったという。
戦後は赤線として復活するも、つまるところ戦前の貸座敷はなく、あるとしたら赤線時代の特徴を備えた建物、ということになる。
あーあったあった、こんなやつね。
こっちは転業旅館だろうか。
赤線の名残は住吉町界隈に多く見られた。もう少し東の入舟町、松浜町あたりまで行くと、こちらは現役の色街である。キャバクラやスナック、風俗店などネオン煌めくピンクゾーンになっていた。
パツ屋
福山の色街には裏の顔があるという。どういうことかはググればすぐに出てくる世の中なので割愛するが、なんせ名前のインパクトが強烈なのである。
一発屋を略してパツ屋
なんというキャッチーそして下品なネーミングなのか。
このへんのくだりを知ったのは実は一冊の文庫本がきっかけで、もうすぐ記事を書くことだし久々に読み返してみるかぁ、と思っていた矢先のニュースだったので。そりゃ驚くわな。
本のタイトルは『色街を呑む』
著者は、このたび兵庫県知事選に立候補したコラムニスト、あの勝谷誠彦氏である。
同書によれば、40分12000円、要するに本○ロのことらしいのだがちょっと調べてみると今でも同じような料金で遊べるようである。
どうでもいいけど、個人的には勝谷さんには当選してほしいと思っていて。そして赤線を復活させてほしい(笑)
[追記]
勝谷さん残念でしたね。健闘したほうだとは思いますが。
話がどんどん脱線してってるけどなんかもう戻す気もないのでこのままだらだら続けます。
新旧歓楽街の境界が曖昧な上に、『赤線跡を歩く』には遺構そのものがかなり数を減らしているとの記述もあったので、少しずつエリアを拡げながら結構ぐるぐると歩き回った。
結果的に、そんなに多くはなかったけど面白い建物もいくつか残っていたのでがっかりという感じはなかった。
ただ、地割や幅員と言った明快な名残は皆無で、ただ単に都市部の繁華街を歩いて来ました、的な感じもまた否めなかった。
そんなわけで新町遊郭編はオチもなくそろそろ終了の時間ですw
因果関係は不明だけどお稲荷さんもあった。
国道沿いに残っていた転業旅館と思われる建物。
夜間の託児所も色街ならでは。
そう言えば福山って一度旅の途中に泊まったことがあって、あれはもう10年前か、あんときは車で中国地方を周遊したんだったな、なんてことを歩いていたら思い出した。
本当に泊まっただけで福山城すら行かなかったんだけど、図らずもその後行きたい場所が出来て、「いつか○○○に行く!」とずっと呪文のように繰り返してきた。
次回、憧れだったその場所へ。
[訪問日:2016年12月31日]
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