笠岡・伏越遊郭跡 ~栄華と凋落の果てに~

岡山県
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赤線との出会いは1冊の古本だった。あれは確か2011年のことだったと思う。
もちろんそのときはそれがどういうものか理解できなかったが、表紙の写真に写っていた風景、添景の建物は第一印象としてその日を境に記憶の浅瀬に刻まれることになった。

元来、古いまちは好きだった。
ただ、誰からも気にかけられず、時には疎まれながらこの世から消えて行く色街の持つ儚さには、この上なく哀憐の念を抱いた。

あれから6年。
往時を知る建物が消える前に。なかば焦りにも似た思いに衝き動かされ、まるで何かに憑かれたかのようにあまたの街を歩いてきた。

そして…
長い時を経て、記憶と現実が線でつながれる日を迎えることになった。

その本こそが『消えた赤線放浪記』であり、
表紙に写っていたのは岡山県の笠岡市にあった遊郭跡だった。

その地に立ったとき、何とも言えない妙な感慨に包まれたのを覚えている。
岡山に来たのは10年ぶり、笠岡にいたっては初めて来たのに、である。自分ごとながら不思議な感覚だった。

笠岡は岡山の最果て。隣はもう広島県の福山である。
瀬戸内海に面した港町で、かつては四国方面への船便もあった土地柄。遊郭ができたのもごく自然な流れだったのだろう。

遊郭のあった伏越は笠岡駅の南東、徒歩で10分くらいの場所にある。

おぼろげな記憶にようやく輪郭が与えられる。
だが、ここへ来てもその願いが叶わないことははじめからわかっていた。いや、むしろそんなことはもうどうだってよかった。

ここにあった岡部医院の建物が焼失してから、早いものでもうすぐ8年を迎えるようだ。
目の前には凛と澄む冬の空が広がっていた。

哀しい歴史を帯びた街の空気を浄化するかのように、どこまでも優しい午後だった。

『全国遊廓案内』によれば、ここには16軒の妓楼と63人の娼妓がいたという。それも全員二枚鑑札で、芸事にも秀でた妓たちとの記載がある。
こういう場所はなかなかないし、これはちょっとすごいことである。

光と影。こと、遊里に於いてはその性格上、往時を「影」と扱うことが多い。
だが、笠岡の地ではそれが完全に逆転していた。

かつて妓楼が並んでいた通りには、自らの華々しい過去を唾棄するかのごとく、朽ちかけ、ゴミが積まれた廃屋がまっすぐ並んでいた。

やはり8年前の火災が分水嶺となったのだろうか。
陰鬱な空気が漂い、すでに街からは生気が完全に消えていた。

付近を歩いても、とてもあの赤線史に燦然と輝く有名な遺構があった地とは思えないほど、まるで伸びきったラーメンのようにくたびれたまちなみにしか出会えなかった。

それほどまでにあの洋風建築が異彩を放っていた証左なのだろう。
だが、結局記憶の点と現実が線でつながることはなかった。

言い換えれば、目の前の現実とのギャップが埋まることはなかった。

この街からは人の営みが消えてしまったのだろうか。

目につく建物のほとんどが廃屋で、人に出会わなければそう思ってしまうのも無理からぬ話である。

すでに廃業して久しいように見える美容室があった。
もしかしたら、嘗ては娼妓を相手に商売する髪結いだったのかもしれない。

遺構とは違う気がするが、モダンな建物も1軒だけ残されていた。

笠岡、伏越遊郭跡。
山陽本線の線路に沿って、山の麓にへばりつくように妓楼が並んでいた色里。逆側には伏越港が控える。

望んでもないのに有名になってしまった色街が、本当はひっそりとした余生を送りたかったのだとしたら。
死にゆく街にも意志が宿っているのだとしたら、今の姿にさせたのもその意志の仕業なのかもしれない。

かつて海の玄関口として賑わった伏越港。

遊里の凋落に呼応するように、小さなさざ波だけが水面を漂い、陽の光を受けてキラキラと輝いていた。

伏越遊郭の栄華の名残は、今はもうない。

[訪問日:2016年12月30日]


コメント

  1. maru より:

    味のある遺構でしたね。
    駅から少し離れている場所というのも
    当時をしのばれます。
    朽ちていく、、、
    これほど似合う跡はないかも。

    • machii.narufumi より:

      どんな建物も、消えてしまったらそれまでですよね。
      朽ちゆく街を見てると人の一生に似てる気がして妙に切なくなるんですが、ここは本当にそれを強く感じましたね。

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